平成17年8月27日の新聞を開いていて、ある見出しに目が惹き付けられた。『平城京 十条 あった?』(朝日)、『平城京「十条」あった?』(産経)、『平城京南に広がる』(毎日)、『平城京巡る論争に一石』(読売)、『平城京は広かった』(日経)等である。
 このような見出しを見ると考古学ファンの私は居ても立っても居られない。明治に入ってから今日まで平城京の南端は九条大路であり、ここに羅城門と城壁があったとされてきたからである。古代の歴史書を書き換えなければならない大発見かもしれない。
 遥か昔、1300年前のこと、平城京は政治と経済の中心地として、また世界との交流で賑わう都市として計画された。
 この都市を計画したのは文武天皇と藤原不比等らである。和銅元(708)年に工事が開始され、元明天皇の時代、和銅3(710)年3月、それまでの都である藤原京から平城京に遷都が行われた。理由は諸説があり特定することはできないが、一般的に「藤原京は中央集権国家の都とするには手狭であった」とされてきた。


 だがそれだけではない。藤原京が二代の天皇で終焉を遂げたというのはやはり都を造り替えなければならなかった何か失敗があったからではないだろうか。藤原京は、情報量の少ない中、唐の長安を模して造ったはずであった。にもかかわらず出来上がった都は長安とは大きく違っていた。途絶えていた遣唐使が再開され、30年ぶりに還学生(げんがくしょう)達が帰ってくると長安との違いが明らさまになった。その最も大きな違いは皇宮の位置である。長安は皇城が北の端にある北闕型都市で南北8.6q、皇城の朱雀門から京域の南端の明徳門まで道幅150mという朱雀大街が通っている。これに対して藤原京の皇宮は都の中心にあり、そこからのメインストリートである朱雀大路は道幅24m、しかも300m南には日高山の丘陵地があり、ここを切り通して大路を建設しようとしたがその南側では大路が確認されていない。さらにこの都を南に伸ばすことは出来なかった。何故なら南の方が高く皇宮が低くなるからだ。南の正門に外国使節団を迎えるに当たって天皇が低い位置にいることになる。こんな屈辱的な都城があっていいものだろうか。私はいつの頃からかそんな想いを持っていた。

 平城京の町割りは東西道路である条と南北道路である坊で土地を区画する条坊制が都市計画の基本となっており、明治以降、図のように右京の西大寺の北側に「北辺坊」、と左京の興福寺の辺りの「外京」と呼ばれる張り出し部分をもつとされてきた。それが今回、九条大路の羅城より更に南に条坊遺構が存在したというのである。
 羅城とは、中国の都市を取り囲む城壁のことで、羅城門は羅城に取り付けられた門のことである。中国では外敵防禦のためかなり堅牢な羅城が築かれたが、日本ではその存在自体疑われていた。何故なら平城京では羅城門を中心に東西約130mの城壁があったと推定されていながら、実際その遺構は確認されていないからだ。
 今回、マスコミに大々的に取り上げられたのは、奈良県大和郡山市下三橋町で平成17年2月から発掘調査を行っていた遺跡である。
 これまで発見されていなかった羅城らしき遺構も初めて見つかった。ここは羅城門からの距離にすると520mの位置であることから東西合わせて1q以上の城壁があった可能性がでてきた。今回の羅城と思われる遺構は九条大路南に2列に柱穴が並ぶもので、築地塀(土塀)の跡なのか門のような施設だったのか、さらに発掘を進めて検討しなければならないが、平城京の南限であると考えられる。
 そうするとここより南で発掘された条坊遺構の持つ意味が分らない。調査を担当した(財)元興寺文化財研究所の佐藤氏によれば、「今回の発掘調査の区域では土地の利用は極めて希薄であり、長く利用した形跡は見られない。道路側溝は人の手によって埋められており、何らかの理由で意図的に条坊を壊してしまったようだ。その時期についてはおおよそ奈良時代の初期、遷都後間もなくであろう」ということだった。

 さてそこで学術的な世界では実証しなければ決して許されることのない推論でも、私のような古代ロマン志向の考古学ファンは無責任にも結論を出してしまいたくなる。
(一)当初の設計段階では十条大路まで、あるいはそれ以上の大きさを想定していたが何らかの理由で計画が縮小してしまった。何らかの理由とは経済的問題や労働力の確保に支障をきたしたというような事も考えられるし、あるいは天皇や不比等のような権力者の意向によって中断というような事も考えられる。
(二)平城京の「北辺坊」のような特別な区画をここに設置した。しかし、平城宮からも離れており実際には使用の目処も無く閉鎖してしまった。実際、平安京にも北東位置に条坊制による町割り区画が存在している。
(三)奈良時代の早い時期に埋め戻している事実に注目すれば、設計書にない部分まで、現場の工事関係者が施工してしまった。
 当時の物指しには大尺と小尺が使われていたが713年大尺の使用が禁止された。条坊の長さの基準は大尺であり、羅城の柱間の基準は小尺であった。恐らく羅城は条坊の区画がある程度整ってから小尺を使って建設を始めたのだろう。朱雀大路の南端という公式な位置からの羅城であるため、この段階で余分にはみ出してしまったこの区画を埋め戻した。等々自由奔放に思い浮かべてしまうことが出来る。特に(三)のような推論は平城京研究者の方にしてみれば愚考以外の何者でもないであろう。この三案の中で筆者は第二案が妥当であると思っている。

 今回の発掘範囲ではなかったがさらに南まで調査が及べば十条大路も発見されるであろうことは容易に想像がつく。9月3日の産経新聞の夕刊には「幻の十条大路にロマン」、「教科書を書き換える発見」として紹介されていた。

 一大都市を造ることは簡単なことではない。まして平城京は政治や経済、それに日本独自の文化が形成された激動の時代にどのような思いでこの壮大な都城を造り上げたのか。遺跡発掘現場を見て古代に想いを巡らせるとそれはまさにロマンを感じる。そして古都奈良の風景は何故か私の心を惹きつけて止まないのである。
(遠藤真治記)
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