NHKの大河ドラマ「義経」では、義経が木曾義仲を討ち、いよいよ西国へ平家殲滅に突き進んで行く段階に入りました。この時期の「義経」は奇襲に長け、向うところ敵無しの状態です。司馬遼太郎氏のいう日本史の中の人気者が誕生していくところでしょうか。
今回は「平家物語」巻第9を基に義経の初戦ともいえる「宇治川の戦い」を追ってみましょう。
 時は1183(寿永2)年、四国にあった平家軍は義仲軍を岡山県水島に破って力を盛り返し、翌年旧都福原(神戸)に戦闘の備えを固めていました。こうした状況の中、京都では近く平家が帰洛するとの噂が流れだしていました。
 一方、後白河法皇から義仲追討の要請を受けた鎌倉の源頼朝軍は京都に向って進軍していたのでした。窮した義仲は平家に和議を申し出て西方を安定させ、自らは頼朝軍に備えて東方の近江に出陣しようとしましたが、平家側は義仲の思惑通りにはならず話は物別れになってしまいました。

「平家物語」巻第九
『同じき正月11日、木曾左馬頭義仲、院参して、平家追討のために、西国へ発向すべきよし奏聞す。同じき13日、すでに門出と聞こえし程に、東国より前兵衛佐頼朝、木曾が狼藉しずめんとて、数万騎の軍兵をさしのぼせられけるが、すでに美乃国・伊勢国につくと聞えしかば、木曾、大きに驚き、宇治・勢田の橋をひいて、軍兵どもを分かちつかわす。折ふし、勢もなかりけり。勢田の橋は大手なればとて、今井四郎兼平、八百余騎でさしつかわす。宇治橋へは、仁科・高梨・山田の次郎、五百余騎でつかわす。・・・』
 
 寿永3年正月11日、義仲は、平家軍が次第に力を盛り返して、京に迫り来るのを追討しようと、院に申し出ました。同じく13日、義仲が西国へ出発しようとした時のことです。「鎌倉の頼朝が義仲の狼藉を鎮めようと、義経を始め、数万騎の軍兵を発進させ、すでに美濃国・伊勢国まで迫った」と聞くや、義仲は大いに驚き、直ちに出発を取り止めました。そして宇治と瀬田の橋の橋板を引き剥がし、ここに軍兵を分けて配置しました。その時には、軍兵も少なくなっていました(入洛した時は五万騎、この時には六千騎に減少)。瀬田は大手(敵の正面を攻撃する軍勢)であるので、今井勢八百余騎で、宇治橋へは仁科・高梨・山田勢五百余騎を差し向けました。(中略) 

 鎌倉で、頼朝が、「生月」(いけづき)・「摺墨」(するすみ)という名馬を持っていました。家来の梶原源太景季(かげすえ)は、その「生月」が、どうしても欲しいと頼朝に懇願しましたが、「これは、有事のときに、頼朝が乗るべき馬なり。摺墨も名馬であるぞ」と言って「摺墨」を与えました。暫くして、別れを告げに来た佐々木四郎高綱に、頼朝は何を思ったのか、「皆が欲しがるこの生月を、そなたに与えよう。その旨心得よ」と佐々木に与えたのです。(中略) 

 鎌倉からの軍勢は、尾張国から大手・搦手(からめで 敵陣の後ろ側を攻める軍勢)の二手に分かれ攻め上がります。搦手の大将軍は源九郎義経、二万五千余騎で、伊賀国を経て宇治橋の袂に押し寄せました。義仲軍は、宇治も瀬田も橋板を外して、川底には杭を乱雑に打ち込み、これに太い縄を張り巡らせています。1月20日のことですから、比良の高嶺、志賀の山に積もった雪も解け、宇治川の水は増水して、白波がおびただしく立って流れ下っています。夜がほのぼのと明け行きますが、河霧深く立ち込めて、馬も鎧(あぶみ)も定かには見えません。どうしようかと悩んでいる義経に畠山が進み出て、「この川は琵琶湖を源としていれば、待っても待っても、水が干く事はありません。さりとて、橋を架ける者が何処に居ましょうか。治承の合戦に、足利又太郎忠綱という人はこの川を渡っています。彼とて鬼神とも思われません。私が試してみましょう」と。五百余騎の轡を並べて渡ろうとした時に、佐々木高綱と梶原景季が現れました。はた目には分りませんが、内心は先陣を目指していました。そこで梶原が少し前へ踏み出たとき佐々木は「この河は、西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んでいるように見える。締め給え」、梶原もその通りと思い、腹帯を解いて締め直しました。その間に佐々木はつっと馳せ抜けて、河へザブンと飛び込みました。梶原は「謀られたか」と思い、続いて飛び込みました。梶原、「佐々木殿、手柄を立てようと焦って、不覚を取りなさるな。水の底には大縄がありますぞ」というと、佐々木は太刀を抜いて、馬の足に掛かる縄を、ブツリ、ブツリと斬りつつ進みます。「さすがは生月、日本一の名馬に乗ったりけり」、宇治川は速しといえど一文字に渡って、対岸へ渡りきったのです。 

 一方の梶原の摺墨は、川中から緩く押し流されて、はるか川下に上陸しました。佐々木は鐙に踏ん張り立って声高らかに、「宇多天皇より九代の後胤(末裔)、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なり」と名乗りを挙げました。

 以上が「平家物語」に書かれている「宇治川の先陣争い」の話です。
 この宇治川の戦いで義経軍が勝ち、義仲は瀬田の橋を守っていた今井四郎兼平と合流しましたが、4日後の夕刻、大津市の粟津の松原で矢に討たれて最期を遂げたのです。貴族社会から武家社会への歴史の転換期に、一時は後白河法皇に歓待されながら、やがては嫌われ、その身の処し方も知らず、運命に翻弄されて消えていった木曾義仲。その最期の始まりがここ宇治にあったのです。

 現在、宇治川には二つの中洲があり「中の島」と呼ばれています。上流側を「塔の島」下流側を「橘島」といいますが、この「橘島」の中ほどに写真のような「宇治川先陣の碑」が建っています。しかし、実際の先陣争いは現在の宇治橋の下流の辺りだといわれています。地図

 佐々木四郎高綱と生月の写真は京都市伏見区の明治天皇陵に隣接する乃木神社で撮ってきました。乃木希典は日露戦争当時の大将ですが、大正元年、明治天皇の大葬当日は自邸で妻静子夫人とともに「殉死」しています。その美談を称えて明治天皇陵の側に神社が建てられて祀られているのは分りますが、何故にこの神社に佐々木四郎高綱と生月の絵があるかと言いますと、高綱は宇多天皇第八皇子敦賀親王の末裔ですが、そのまた末裔が乃木大将なのです。
 この話はあまり知られていないので蛇足ながら付け加えておきます。
参考図書: 岩波文庫 「平家物語」 校注:梶原正昭、山下宏明
(遠藤真治記)
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