「いかるが」、この奇妙で好奇心を沸き立たせるような響き、気になって調べてみた。
それは鵤(いかる)という鳥に由来しているらしい。鵤は斑鳩(まだらばと)のことで、全長23pくらい。体は灰色で、頭・翼・尾羽は紺色で嘴は太くて黄色だそうだ。さえずりは「月日星(つきひほし)」と聞こえるところから三光鳥ともいう。斑鳩の里は山裾には菩薩池、片野池、天満池、その他大小多数の池があって、中には仏教説話の舞台になっている池もあり、水のある風景も楽しめる。日本の国の黎明期に大きな役割を演じた聖徳太子もこの地に住み、この風景を見ていたのだ。
 太子は推古13年(605)、この地に斑鳩宮(いかるがのみや)を造営して飛鳥から移り住んだ。この地は龍田道と当麻道が交差しており、また、大阪湾に流れ込む大和川が流れていて飛鳥、難波、当麻を結ぶ交通の要衝というべきところである。
 太子がこの地を選んだのはそれだけの理由ではない。蘇我氏の影響力から逃れようとしたことと積極的に政治に関わろうという意思の現れからではないだろうか。
 法隆寺 
その聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺は国宝38件、重文151件をはじめ、膨大な寺宝を有する古刹で、西院には世界最古の木造建築で知られる金堂や五重塔、東院には八角形の夢殿(いずれも国宝)がある。文化史上重要な寺院であることから平成5年12月(1993)には日本初の世界文化遺産にも指定された。
 その草創については法隆寺金堂の東ノ間に安置されている薬師如来の光背銘に以下の記述がある。『天の下治しめしし天皇(用明天皇)が自らの病気の平癒を願って寺の建設を誓願したが、その実現を見ないまま薨去された。
その意志を継いで推古15年(607)に寺を完成させたのが大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)・・・』
 ところが「日本書紀」には推古14年(606)、『播磨国水田百町を斑鳩寺に納めた』との記述があり、また「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」にはこの『水田の施入を推古6年(598)のこと』と記載されており、さらには前述薬師如来の光背銘については「天皇」という当時まだ使用されていない称号が使用されていることもあって、後世の造作といわれるに至っては確信を持って創建時期を言いきることはできない。
 法隆寺や聖徳太子に関しては他にも奇説、珍説があって興味が尽きない。例えば梅原猛氏の著書「隠された十字架」では中門の中央に柱があることや、太子の化身である救世観音の頭部に釘が打ち込まれている事を取り上げ、聖徳太子の怨念を封じ込めるための寺だという。
 また、聖徳太子についても中部大学の大山誠一氏は『聖徳太子と日本人』の中で、「法隆寺釈迦三尊像光背銘」、「天寿国繍帳」、「伊予国湯岡碑文」等の矛盾点を取り上げ、太子架空人物説を主張されている。
 ところで、正岡子規の「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」は法隆寺の茶店で詠んだ句には違いない。しかし、実際は子規が東大寺裏の旅館に泊まっていた時、夕食の後に柿を食べていると東大寺の鐘がなった。これが印象に残っていたのか、翌日出かけた法隆寺の風景を見てこの鐘と結びつけ詠んだというのが真相であるそうだ。
 法輪寺

 斑鳩の里でも北方の三井(みい)の地にあり、地名から三井寺ともよばれている。三井の地名は、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地に移したことに始まるらしい。
 創建については、推古30年(622)、聖徳太子が病気になった折、長子の山背大兄王が病気平癒を願って建立した(『寺家縁起』)というものと、天智9年(670)の法隆寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が協力して造寺した(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)というものがある。
 この寺も度重なる火災のため多くの仏像は、現在鉄筋コンクリートの講堂(兼収蔵庫)に安置されている。講堂の中は明るくて拝観しやすいのであるが、何故か寺の持つ重厚な雰囲気に欠けているのが残念な気がする。仏像の中でも薬師如来は飛鳥時代の木彫如来像としては最大のものだ。薬壷を持たない薬師如来で懸裳(かけも)が垂れ下っており弥勒菩薩かと思わせるものだった。
この法輪寺の裏山には三井の地名の由来となった井戸が今も残っている。寺から歩いて数分のところ、観光目的で行くのならここまでは押さえておきたいところである。 
また、同じ三井の地の中に瓦窯跡がある。ここからは法隆寺、法輪寺の瓦と同じ八葉複弁蓮華文の軒丸瓦が発見されており、ここでこれらの寺の瓦が作られたものと想像できる。


法起寺
 この寺は、聖徳太子が法華経を講説したという岡本宮を寺に改めたものとで、聖徳太子が死を前にして山背大兄王に岡本宮を改めて寺とすることを遺命して、推古30年(622)以降に創建されたものである。当時の建物としては三重塔のみが残っており、この三重塔は屋根の勾配が緩く、どっしりとした安定感のある美しい飛鳥時代の様式を今に伝えている。法輪寺、法起寺の塔が見える景色は、自然が時を置き忘れたような一枚の絵画を見るようで、心がなごんだ。

 藤ノ木古墳
 法隆寺から西に歩いて5分ぐらいのところに藤ノ木古墳がある。昭和60年10月(1985)、橿原考古学研究所の調査で、朱塗りの石棺や副
葬品が盗掘もされず埋葬時のまま残されていることがわかり、さらに1988年10月の石棺の調査で豪華な馬具や履(くつ)などが出土して、一躍有名になったところだ。

人骨も二人発見されており、一人は二十歳前後の男性と発表されている。
 出土品の中で筆者が興味を持ったのは金銅装透彫鞍金具で、六角形をつないだ亀甲文のなかに、「象」、「鳳凰」、「龍」、「鬼面」などの姿が透彫りされており、その周辺には古代エジプトを起源とする植物文様が施され、その交差する位置にはガラス玉がはめこまれている。中央部には金銅板が嵌め込まれ「鬼神像」が浮彫りされている。これまで各地で出土した鞍金具に比べ図像、文様とも優れ、考古学的興味もさることながら美術工芸品としても十分に価値があるものと思われる。他にも鉄刀、鉄鏃、須恵器、土師器、弓矢が数多く発掘されている。
藤ノ木古墳の被葬者が誰か不明ではあるが、これらの副葬品を見ると富と権力とを持った王族の長の子供である事はほぼ間違いがないだろう。
 飛鳥で冠位十二階を設け、憲法十七条制定して斑鳩の里に移り住んだ聖徳太子。斑鳩の里は太子の意気込みや、遠い昔の日本の息吹きに触れられるところ。歴史の持つロマンに浸りながら満喫した一日を過ごしたところだった。
(遠藤真治記)
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