11月のある日、奈良文化財研究所の講演が午後からあるというので聴講することにしていた。奈良に出かけるのであれば午前中から出かけて何か新しい発見を期待して歩くことにした。 近鉄奈良駅に着いてそこから西へ歩いて数分、何やら面白げな神社を発見。石碑を見ると「饅頭の祖神 林神社」と書いてあるではないか。饅頭の神様?思わず首を傾げてしまった。 「何なんだろう?」こういう石碑を見ると興味が湧き調べてみることにした。その神社は昭和24年に建てられた比較的新しい神社である。飛鳥時代に創始されたと伝えられる漢國(かんごう)神社 の境内の中にあって、名前は石碑の通り 「林(りん)神社」という。
 南北朝時代に龍山徳見(1284〜1358)という禅師がいた。1341年(50年説あり)、留学先の中国の元から京都に戻ってくると、足利直義(足利尊氏異母弟)の推挙により建仁寺第35世住持となり、続いて南禅寺24四世、天竜寺6世をも兼務したという大変な高僧である。この禅師が元から帰国する時に随従してきた中国人に林淨因(りんじょういん)という人物がいた。その淨因は奈良の漢國神社の社頭に移り住むことになる。
 古代から江戸時代近くまでは食事の習慣は一日二食で、この時代は食事のほかに軽食として点心を食することもあった。淨因は小麦粉を練って作った皮に羊肉や豚肉や野菜を詰めて食べる肉饅頭「包子(パオズ)」から思いついたのだろうか、禅僧でも食せるように小豆を甘く煮込んだ餡(あん)を小麦粉から作った皮に包んで蒸した饅頭を作り上げたのだった。これが記録に残る日本で始めての餡入り饅頭ということらしい。
 饅頭については他に小麦粉に酒種を混ぜて小豆餡を包んで蒸す製法の酒饅頭が古くから伝わっている。その起源はこれも禅宗寺院の東福寺の開祖となった聖一国師(円爾弁円)が、1241年、宋留学を終えて帰国後、博多の茶店の主人粟波吉右衛門に製法を伝授したと伝えられる説もあるが、これは伝説の域を出ないものである。
中国での饅頭の起源も書いておこう。これは中国の三国時代、諸葛孔明が蜀の背後を固めようとしたとき、南蛮の盤蛇谷で河が氾濫していた。これを沈めるには人間の頭49人分を河神に供えて祀らなければならないという風習があった。
 それを聞いた孔明は、羊や豚の肉を小麦粉で作った皮で包み、人の頭に包見立てて捧げたと言うのが饅頭の始まりである。蛮地における儀式に人の頭の代わりに用いられたところから、「蛮頭」だったのが「饅頭」文字が当てられるようになったという。
 本題に戻ろう。淨因は奈良県五條市の賀名生(あのう)の行宮に滞在していた南朝第二代の後村上天皇(1328〜68)にこの饅頭を献上した。天皇は大変喜ばれたのであろう。これが縁で淨因は宮中の女官と結ばれることになった。この時、紅白の饅頭を各所に配り、子孫繁栄を願って、写真の「饅頭塚」の石の下にも埋めたと伝えられている。

 現在でも、祝いの時に紅白の饅頭を配る習慣があるが、この時から始まったと見てよいだろう。
 やがて子宝に恵まれて、饅頭屋の家業も大いに繁盛したようだ。しかし、浄因は徳見が亡くなると翌年4月19日に帰国してしまった。この4月19日を淨因の命日と見立てて、この日には全国の饅頭業界関係者が林神社に集まって饅頭祭りが行われている。
 林家の子供は家業の饅頭屋を続けていたが、淨因の次男である惟天盛祐は京都に移り住んだことから、林家は奈良と京都に分かれてしまった。奈良の林家は饅頭屋を営んでいたが幕末に廃業となった。京都の林家の饅頭屋は大いに栄えた。京都の林家では淨因から五代目に紹絆という人物が現れた。彼は応仁の乱(1467〜1478)を避け、三河国設楽郡塩瀬村に移り、林家は塩瀬姓を名乗るようになった。この頃から林家の作る饅頭を「塩瀬饅頭」と呼ぶようになった。また紹絆は元へ菓子製法を学びに行き、帰国後、皮のつなぎに山芋を使う「薯蕷(じょうよう)饅頭」を作り出した。この饅頭が現在の「上用饅頭」元祖ということになる。
 応仁の乱後、紹絆は再び京都に戻ってきて店を構えた。そして茶の湯の流行と相俟って足利義政からは「日本第一番本饅頭所」の看板を授かり、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領するまでに成長していった。紹伴の子、宗味は千利休と親交があり、利休の孫娘と結婚している。この宗味は帯地や茶の袱紗の「塩瀬織」を考案した人物である。
 千利休の名前が出たところで茶の話もしてみよう。お茶が初めてもたらされたのは平安初期に入唐した最澄らの留学僧によってである。平安時代、喫茶の風習は時代を先取りする一部僧侶・貴族の間にとどまっていた。この時代のお茶は団茶といって摘みとった茶を蒸し、すり潰ぶして型に入れ乾燥させたものにお湯を注いで飲むというものだった。お茶の習慣は鎌倉時代に入って栄西(1141〜1215)が抹茶法を伝え、「喫茶養生記」(1211)を著したことにより大きく変化した。
 我々の知っている抹茶の登場である。「喫茶養生記」には五蔵が欲する酸・辛・苦・甘・鹹(かん)の五味のなかで、とくに心臓を強くする苦味が摂取しにくいので、苦味を補給する茶を飲むことが必要と説かれていることからも、抹茶は医薬品との考え方があったことも窺える。
 室町時代も中期以降になってくると武家社会と禅宗文化が融合し、足利義政を中心とする武家社会で東山文化が花開いてくる。義政の東山殿(銀閣寺)は公家・武家・禅僧らの集うサロンの役割を果たしている。村田珠光が現れ四畳半の茶室を創案して侘び茶を確立したのもこの時期である。その後、武野紹鴎が侘び茶を完成させ、その弟子であった千利休が大成したといえる。

 饅頭がこれほどまでに日本文化に溶け込んで行ったのには、単に日本人の口に合ったからだけではない。公家、武家、僧侶、有力町衆と塩瀬家とのつながり、そして茶の湯の発展と茶菓子との結びつきがあったからこそであろう。
 建仁寺の開祖栄西が抹茶を伝え茶道の始まりを成した。そして建仁寺の龍山徳見。その徳見に私淑した林淨因。その子孫が千利休の孫娘を妻とした事実。今回、偶然にも発見した林神社、饅頭と茶がこのような形で建仁寺が関わっていたことを発見して歴史探訪の面白みを味わうことができたのである。

 尚、京都の塩瀬饅頭は、徳川家康の江戸開幕の後に江戸に移り、現在は東京都中央区明石町で和菓子製造販売業として盛業中である。
(遠藤真治記)
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