− 菅原 道真 −
                      (その1)    第29回

 平安時代前半の頃。平安京では異変が相次いで起こっていた。908(延喜9)年10月7日建礼門の番人である蔵人頭の藤原菅根が落雷に打たれて死亡。続いて翌年4月4日に時の権力者であった藤原時平が39歳の若さで死去、世の中には疫病が流行した。4年後には右大臣源光も狩猟中に底無し沼に馬ごと突っ込み死亡。923年は時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去。930年には愛宕山上から黒雲が湧き立ち、朝議中の清涼殿を覆い、雷鳴が轟き落雷し、中にいた大納言藤原清貫は即死、平希世は火傷など朝廷の要人に多くの死傷者が出た。これらの出来事は菅原道真の怨霊の祟りと信じられた。

 菅原道真といえば天神様として知られている。彼は野見宿禰(のみのすくね 相撲の始祖)を祖とする土師一族の傍系で、父は菅原是善、母は名門大伴家の出である。845年、道真は代々学問をもって朝廷に仕える菅原家に生まれた。5歳で和歌を詠み、10歳で漢詩を書き、33歳で文書博士(もんじょはかせ)になり、宇多天皇に重用されて55歳で右大臣にまで登り詰めた。当時は藤原氏に強力な人材がいなかったこともあり、宇多天皇は天皇親政を久々に行うことができた。天皇はこの体制を維持しようと考えたのか、藤原氏に政治の実権を握られないようにするため、息子を天皇に立て自らは上皇として磐石の構えを築こうとした。こうして897(寛平9)年、醍醐天皇が誕生した。
▲北野天満宮
 ところが、醍醐天皇は菅原道真とは馬が合わなかった。これに乗じて藤原時平が天皇に近づいて行ったのか、天皇は菅原道真を遠ざけるようになった。


 京都市上京区に安倍晴明を祀った晴明神社があるが、その近くに「一条戻橋」という橋がある。
この橋の名前の由来は『撰集抄』に書かれているが、それによると漢学者の三善清行(みよしきよつら)が亡くなった時、父の死を聞いた紀州熊野で修行中の八男浄蔵は急ぎ帰ってくると、その葬列は丁度この橋の上を通っていた。浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ雷鳴とともに清行は一時蘇生して父子が言葉を交わしたという。

その三善清行とは誰なのか。914年、彼が提出した「意見封十二箇条」は、当時の政治の欠陥を追求するものだった。気骨のある漢学者であったのだろう。
清行は一度官吏の登用試験に落ちている。この時の試験官が菅原道真であったことがその後の道真の運命を決定づけたと考えるのは早計だろうか。

 登用試験以降、清行はことあるごとに道真と対立した。左大臣藤原時平と対立し朝廷内で孤立を深めつつあった右大臣菅原道真に引退を勧める書簡を900年10月11日に送るに至っている。更に11月21日には醍醐天皇に「明年2月は辛酉革命の時。国家社会の秩序を乱す君臣の運に当る。天皇は戒厳警衛し邪計を未然に防止されたし」という内容文を奏上している。

そして901年、天皇は道真から右大臣の地位を取り上げ、皇位簒奪(さんだつ)して斉世親王(ときよしんのう 醍醐天皇の弟)を天皇に就けようと謀った罪で大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷した。つまり九州の太宰府へ流すことを決定してしまったのである。これを知った宇多上皇が宮中に駆けつけた。ところが門の前に蔵人頭が立ちはだかって上皇を中に入れなかったという。この蔵人頭こそが前出の雷に撃たれた藤原菅根だった。
▲太宰府天満宮
    ▲太宰府天満宮飛梅
『東風吹かばにほいおこせよ梅の花
         あるじなしとて春なわすれそ』
菅原道真が左遷されて京都を去るとき詠んだ歌。はるばる太宰府の道真のもとに飛んできた。

 太宰府での道真は半ば軟禁状態であったのだろう。無念の思いを残しつつ僅か2年で903(延喜3)年2月25日、五十九歳でこの世を去った。死期を感じ取ったとき道真は、「自分の遺体は牛に牽かして、牛が立ち止まったところに自分を葬ってくれ」と言い残している。
この遺言を実行したのは随臣の味酒安行だった。
亡骸を轜車(じしゃ 喪の車)に乗せ筑紫国三笠郡四堂に墓を築き葬ろうと出発した。
ところが墓所に行く途中、牛がうずくまって動かなくなってしまった。これは道真のここに葬れとの思し召しと考えて、その場所を墓所とすることにした。それが現在の太宰府天満宮の本殿である。

 日本には古来より御霊(この世に怨念を残して死に、のちに現世に祟りをなす死者の霊)信仰があり、道真の死後の都での異変が道真の祟りだと信じられたのは、この御霊信仰のためである。祟りを鎮めるために醍醐天皇は、道真の罪を赦すとともに923年に右大臣に復し、翌年、正一位左大臣、さらに太政大臣にまで贈位した。
しかし、930年には冒頭の清涼殿の落雷事件が起こり、天皇はその心労が原因か、3ヵ月後に病死する。

 当時、京都の北野の地には雷、火難、五穀の守護としての火雷天神が祀られていた(現在、北野天満宮の摂社「火之御子社」のことか)。
落雷事件以降は道真の怨霊とこの火雷天神とが結びつけられるようになった。そこで道真の怨霊の怒りを鎮めるため、947(天暦元)年に乳母の多治比文子にあった託宣を取り入れ、村上天皇は北野天満宮を創建した。

「人が神として祀られる第一の条件はその人がこの世に恨みを抱いて死んで行った場合である」(『柳田國男全集』 筑摩書房)という条件を満たしているのだろう。
 菅原道真が怨霊として恐れられていたことは、道真の霊が天満大自在天(天上を自在に支配する万能の神)とか太政威徳天と呼ばれていたことからも分る。
アニミズムから発生した日本各地の天神(あまつかみ)は、天満大自在天天神の配下だと考えられ、道真はそれらの天神を支配統制する神として天神信仰が全国に広まることになってきたと思われる。

江戸時代には道真を題材にした芝居、「菅原伝授手習鑑」は人形浄瑠璃や歌舞伎で上演され大ヒットしたが、その中で菅丞相(菅原道真)は「自らはたとえ身は滅ぶとも霊魂は都へ戻り帝をお守りする」と語り、そのまま雷神となって都へ向かって天拝山を駆け上がって行く場面も天神信仰の流れであろう。

 平安時代の災害の記憶が薄れてくると道真が生前優れた学者であったことから、道真は学問の神として信仰されるようになってくる。
そして現在、受験シーズンを前には各地の天満宮は大賑わいをみせるのであるが、その神は災いをもたらす神として恐れられ、怒りを鎮めるために祀られたことを思えば不思議な感じがしてならない。

 (続く)
(遠藤真治記)



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