− 菅原 道真 −
                      (その2)    第30回

 皇位簒奪(さんだつ)の罪に陥れられて、右大臣の地位を取り上げられた菅原道真。大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、僅か2年後の903年2月25日、失意の内にこの世を去った。その後、都で起こった数々の災い(196号参照)が道真の祟りの仕業とされた。「荒ぶる神を鎮める」ことが政治を行う者の重要な行為のひとつになったといってもよいだろう。

 196号でも触れたとおり、御霊信仰と火雷天神信仰が結びついて「天神=菅原道真」となって猛威を振るうことで道真は恐れられてきた。
しかし、986(寛和2)年には、文章博士の慶滋保胤(よししげやすたね)が書いた北野社願文の中に、道真を「文道の祖、詩境の主」と書き残している。こういったことから、薨逝(こうせい)から80年余り、北野天満宮創建から40年足らずで、「荒ぶる神=怨霊」から学問の神としての崇敬されるてきたことをうかがい知ることができる。
やがて10世紀前半の災いの記憶が薄れてくると、道真が生前優れた学者であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになってきた。
鎌倉時代から室町時代にかけて、法楽(神仏を喜ばせる行為)として連歌や田楽などの芸能が頻繁に催された。このとき道真は、住吉大神、玉津島明神とともに和歌の神と仰がれ、他方、菅原道真、柿本人麿、山部赤人と並んで和歌三神(*注)と呼ばれるようにもなっていた。また道真が空海や小野道風と並び「書道の三聖」ともいわれてきた。
学問、文筆の神としての崇敬が一般庶民の間にも広く浸透したのは、江戸初期に寺子屋が隆盛してからのことである。戦国時代が終結して、貨幣経済が発達してくると町人階級、農民階級の社会的進出が起ってきた。それに伴い「読み・書き・そろばん」が「寺子屋」で教えられるようになった。
江戸の寺子屋では、天神の尊像が掲げられ、子供たちが机を並べた室内では毎朝それを拝んでいたという。
また、毎月25日の天神講には、祭壇の前で師匠が道真の学徳を講和したり、子供たちに「天神経」を読ませたりもしていた。こうなると、現在のように「学問の神」と信じられても当然のことであろう。こうして現在の「学問の神」としての形ができあがった。

さて、摂社・末社も含めて神社数に関する調査(「すぐわかる日本の神々」東京美術17年)では、稲荷神社は32千社、八幡宮は25千社、天照大神は18千社、天満宮は10千社もあるそうだ。
単純に考えれば、稲荷神社は商売繁盛、八幡宮は勝負の神、天照大神は国土安穏・五穀豊穣でしょうか。天神は五穀豊穣であるけれど、今では受験の神様となっている。すべて、現世でのご利益を求めているのが特徴だろう。
各神社では多くの参拝者を集めたいと考えているのだろうか。それとも神に最も近く、関係の深い存在でありたいと願うためだろうか。神社に関する逸話もできあがってきた。
その例は道真が生まれたときに使ったという何ヶ所もある産湯の井戸だろう。更にこれに併せて産湯の井戸を裏付けするような事実までもが語り継がれている。
どこの井戸が真実なのか、或いは、どれも真実で無いのか分らないが、これも道真が有名であるが故の結果なのである。それらの井戸を紹介することにしよう。
 先ずは、菅大臣神社(下京区仏光寺通西洞院東入ル)であるが、菅原道真の旧宅跡(道真以前から菅原家の邸宅地)で、道真が幼少のころからここで学んだとされている。それに因んで社殿を造営したのが菅大臣神社の起源である。古くは天神御所または白梅殿とも呼ばれている。度重なる兵火により、鎌倉期には南北両社に分かれてしまった。境内には道真の産湯に使ったといわれる井戸も太宰府に飛んだと伝わる「飛梅」も境内に残っている。
菅原道真の邸や、菅家廊下といわれた学問所の跡で、誕生の地と伝えられ、天満宮誕浴の井が保存されている。 神社の境内にある「飛梅」。この梅が太宰府に飛んで行ったのか?

 2番目は吉祥院天満宮(南区吉祥院政所町3)。804年、菅原道真の祖父である清公(きよきみ)が、遣唐使の洋上で嵐にあって船が沈みそうになった時、最澄とともに清公が一心に祈願すると、吉祥天女が現れ海難を逃れた。このことより菅原家では吉祥天女を祀り氏寺とした。934(承平4)年、朱雀天皇が自ら道真の像を刻みこの地に社殿を築き道真の霊を祀ったのが吉祥院天満宮の起源である。
境内には「菅公御誕生之地」の石碑が建っており、ここに産湯に使った井戸があったとされている。他にも道真が参朝のとき顔を写したといわれる「鑑(かがみ)の井」や彼の臍の緒が納められているという「菅公胞衣(えな)塚」など道真ゆかりの遺跡が残っており、4月と8月の25日に行われる吉祥院六斎念仏は、京都における芸能として盛大に催される。
吉祥院天満宮拝殿 天満宮東南角に建つ「菅公御誕生之地」の石碑の建っているところは道真の産湯に用いられた井戸があったと伝わる。
道真のへその緒を埋めたと伝えられる菅公胞衣(えな)塚。 道真が参内の前に顔を映した「姿見の井戸(石原井)」と井戸跡にある鑑(かがみ)の井碑。

 3番目は菅原院天満宮神社(上京区烏丸通下立売下ル)。ここは菅原道真の曽祖父菅原古人(ふるひと)以来の邸宅であった「菅原院」(平安京一条三坊十二町)があったところとされている。石鳥居の横にも「菅家邸址」の石碑が建っている。
枕草子20段「家は、九重の御門、二条みかゐ、一条もよし。染殿の宮、清和院、菅原の院。冷泉院、閑院、朱雀院。小野宮、紅梅、県の井戸。竹三条、小八条、小一条。」に登場する「菅原の院」のことだろうか。社務所の西側に「菅公御産湯の井」なる石碑と共に井戸が残っている。
道真が亡くなったあと、歓喜光院となったが、後に六条道場(六条河原院)へ移し、その後、この地に菅原院天満宮を創建したと伝わる。本殿南には道真遺愛の石灯籠が残されている。

他にも、奈良市の菅原天満宮には神社の東にある池の水を産湯に使ったという伝説があるが、これは道真の母が、故郷に帰って産んだという説によるものだ。
いずれにしても、証明するものは何も無い。
また、どこの天満宮においても、臥牛が鎮座している。牛と道真を結びつけるそのキーワードは何なのか。
「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、何が真実なのか。それとも全て天満宮の牛とは何ら関係が無いのか。こういったことにも筆者は興味をそそられる。今となっては、その鍵を見つけることはできないが、おそらくは牛にまつわる様々な伝承から、天満宮では牛を天神様の使いとして傍に置いておきたかったからなのだろうか。やはり真実を知りたいものである。
(遠藤真治記)
*注 和歌三神には他に@住吉社・玉津島社・柿本人麿、A衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麿・山辺赤人、
    B住吉社の表筒男神・中筒男神・底筒男神などと云われることがある。



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