− 節分によせて −


 京都盆地の北の端に位置する深泥池(みぞろがいけ)は、周囲約1.5Km、面積約9haの大きさで、池の水は、北山の地下水系からの湧き水と池に降る雨で栄養分は低い。このような、低栄養価な水環境に永年さらされてきた深泥池では、中央に浮島が存在し、 氷河期からの生き残りとされる生物と温暖地に生息する生物が共存している。
一万年以上前の北方の植物であるホロムイソウや氷河期のミズグモなど全国的に希少な動植物も少なくない。昆虫においても日本に分布する約200種のトンボのうち、約50種が生息しているという。
▲深泥池浮島

それ故、この池は昭和2年に国の天然記念物に指定され、昭和63年にはここに生息する生物群集全体が対象に広げられた。京都のような近代都市の周辺でこのような池が見られるのは非常に珍しい。

 この池が市街地に接していることと、歴史が永いということは、人々の生活とも関わりが深かった。奈良時代の高僧・行基がここで修行した時、池に弥勒菩薩が現れたので、御菩薩池(みぞろいけ)と言われるようになったのが名前の由来とか。

また、平安時代の歌人和泉式部が「名を聞けば 影だにみえじ みどろ池に すむ水鳥のあるぞ怪しき」と詠んでいます。
江戸時代の地誌「雍州府誌」(ようしゅうふし 黒川道祐)にも、深泥池の大蛇が人間の女に化けて小栗判官(おぐりはんがん)の妻になったという中世の物語を紹介している。

こういった関わりから、自ずと民話や伝説がこの地域に伝わっている。概略紹介すると以下のような内容である。

『昔々、深泥池のそばに、大きなほら穴があった。ある霙の降る寒い晩、一人の男がこのあたりを通りかかった。すると穴の中から声が聞こえてきた。

中には二匹の鬼が村を襲う算段をしているところだった。これを聞いた男は驚いて、急いで村に帰って庄屋に相談した。庄屋はどうしたらいいのか分らず、貴船神社にお伺いを立てることにした。
そのお告げは「この貴船神社の端の穴が深泥池まで続いていて、あの鬼はそこを通って村へ行く。鬼がやってきたら炒った豆を投げつけて追い払えばいい。それから柊の先にイワシの頭をつけて家の戸口に結びつけておくと目潰しになる。鬼が逃げて穴に入れば出口と入口を塞いでしまえばいい」というものだった。

村に戻った庄屋は、村中の人を集めてお告げのことを話した。それで村中の豆を集めて、鬼退治の仕度を始めた。ちょうど二月の寒い節分の晩のこと、穴から出てきた鬼は、村の方からいい匂いがしてくる家の前までくると、そこには美味そうなイワシの頭があった。
思わずガブッと食いつくと、柊のトゲが目に刺さった。「痛っ!」と叫んだのを機に、村人が総出で鬼をめがけて炒り豆を投げつけた。堪らず鬼は穴へ逃げ込んだ。

そして村人は穴にいっぱい豆を入れて蓋をして、その上に土を積んで「豆塚」と名づけた。また出口の方は、豆を入れてきた桝を埋めて「桝塚」と名づけた。

土の中でしか住めんようになった鬼は人間に仕返しをしようと思って、地中の中であばれ回っていた。それでとうとう田の神が怒って、鬼をウンゴロモチ(もぐら)にしてしまった。
もぐらにされてしまった鬼は、それでもまだしょうこりもなく田や畑に穴をあけては悪いことをしているのだとさ。』


この話から節分に豆をまき、鬼を追い払うことの習慣が始まったとも言われている。


 節分とはもともと二十四節気の季節の分かれ目の日を指し、立春、立夏、立秋、立冬の前日が節分にあたる。しかし現在ではご存知の通り、節分といえば立春の前日、つまり2月3日を指している。これは旧暦で立春を1年の始まりとする考えに基づくもので、新しい年を迎えるにあたり、邪悪を祓い招福を祈願して節分式が行われるようになったのである。

一方、続日本紀には706年に疫病が流行り多くの人々が死んだため「土牛」を作って疫気を祓ったと記され、これが追儺式(ついなしき)の始まりとされている。

大晦日の宮中の行事の追儺式では、金色の四目の面をつけた方相氏(ほうそうし)が右手に矛、左手に盾を持ち、その矛を地面に打ち鳴らしながら「鬼やらい、鬼やらい」と言って宮中を歩き回る。公卿は清涼殿の階(きざはし)から方相氏に対して桃の弓と葦の矢を持って弓をひき、殿上人らは振り鼓をふって厄を払う。イザナギ神話や桃太郎伝説からも分るように桃には邪気を払う力が込められていると信じられてきたからだろう。
この二つの儀式が融合されて現在の「鬼は外、福は内」の節分の行事が確立してきたものと筆者は考えている。

▲吉田神社参道 ▲吉田神社大元宮
延喜式内社全3132座の天神地祇八百万神を祀る。
 京都市内の社寺で執り行なわれる節分行事は多くあるが、その代表格は、なんといっても御所の表鬼門の吉田神社と、裏鬼門に当たる壬生寺と、花街の芸舞妓さんが豆まきをする八坂神社だろう。
吉田神社は京都大学の東に位置し、旧制第三高等学校寮歌にも「紅萌ゆる丘の花・・・」で親しまれている吉田山の山麓にある神社。2月2日の追儺式は有名で、京都で節分の追儺式といえばこの吉田神社の追儺式を指すぐらいである。
 壬生寺は壬生狂言が演じられ、演目「節分」が1時から八回、毎正時に演じられる。
壬生狂言とは国の重要無形文化財で、壬生寺中興の祖とされる円覚上人が、庶民に仏教を理解できるように身振り手振りで伝道したのがはじまりである。

境内に「大念仏厄除」と書かれた素焼きの炮烙(京都では「ほうろく」と呼ぶ)が売られており、この炮烙に家族の名前、数え年令、願い事を墨書して寺に奉納する。

この炮烙は四月の壬生狂言の演目「炮烙割り」の中で割られることによって、節分の時に参拝者によって炮烙に書かれた願い事が成就されるとされている。
▲壬生寺境内
▲壬生炮烙売り ▲壬生狂言


 八坂神社の節分行事は祇園や先斗町はじめ4つの花街の舞妓さんや芸妓さんによる舞踊の奉納と豆まきがある。

その後に福鬼行事が行われる。ここの鬼は「福鬼」といって、災いを祓ってくれる鬼で、体の悪いところを擦ってもらうと、その年は病気や厄を免れるという。


 1300年の歴史を持つ節分行事。時代と共に形態も変化してきた。最近では海苔巻きの丸かじりという習慣も根付いてきたようだ。この先、どのように変化していくのかは想像もできないが、人間の精神面から具現化した鬼や厄という概念が薄まっていくように思えるのである。
▲八坂神社境内
▲八坂神社豆まき ▲八坂神社 花街の舞妓


 他にも京都の神社や寺ではいろいろな行事が行われ、参詣客で賑わっている。
上京区法輪寺(だるま寺) 北野天満宮 大報恩寺(千本釈迦堂)
引接寺 (千本閻魔堂) 廬山寺 釘ぬき地蔵(石像寺)


(遠藤真治記)


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