京都の代表的な師走の風物詩といえば、「まねき」が揚がる南座の「吉例顔見世興行」でしょう。「顔見世」とは遊女が置屋から初めて座敷に出るその前に揚屋に挨拶して回ることを言っていましたが、ここからこの「吉例顔見世興行」という言い方が出たのでしょう。
歌舞伎では、芝居小屋と役者が年俸契約をしていて、毎年11月になれば来年はこの役者で務めますとお披露目の興行をしていました。今では、「顔見世」といえば東西の歌舞伎役者の豪華顔合わせという意味合いになっていますね。
 出雲の阿国(おくに)という女性が「ややこ踊り」という子供の踊りを舞って注目を集めていました。阿国は1603年に北野天満宮境内で興行を行い、これを「かぶき(傾奇)踊り」と呼んでいたようで、これが「歌舞伎」の始まりと言われています。
戦乱の世が過ぎて、徳川幕府が誕生すると安定した社会が実現し、そこに登場したのが「徒者(いたずらもの)」や「かぶき者」と呼ばれる輩でした。「徒者」とは盗賊など治安を乱す集団であり、「かぶき者」とは異様な振る舞いや奇抜な衣装を纏った集団のことです。
阿国は女でありながらそのような風俗を取り入れて踊ることによって、「歌舞伎踊り」を広めていったのです。
 阿国は出雲大社の巫女であったとも、河原者(河原など屋外で演じていたことから始まった役者をさげすんで呼ぶ蔑称)でもあったともいいますが、定かなこところは分っていません。その阿国、やがて人々の人気を得て京都に常設の小屋を建てるまでになりました。
阿国が評判になると多くの物まねをする者も現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)が流行り出しました。ただ、彼女らは身を売ることもあり幕府の取り締まりにあい、1627年に遊女歌舞伎は禁止されてしまいました。
代わって前髪を剃っていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎が興りました。しかし、これまた男色を売る者が続出し、風紀を乱すとの理由から1652年にこれまた禁止されました。そして現代の歌舞伎の原型とも言うべき(前髪を剃り落とした成人男子の髪型の)「野郎歌舞伎」が登場してきたのです。
上下とも阿国の姿
 テレビや映画で見る時代劇などに出てくる歌舞伎役者が頭に紫の布を付けているのを見られたことがあるでしょう。鬘(かつら)のない時代ですから、女形(おやま)が月代(さかやき)の髪型で登場すれば、それはあまりにも滑稽なことです。
そこで剃った月代を隠す為に布を被せたのですが、お洒落な感じがしてこれを「野郎帽子」と呼んだのでした。それで女形はみんなこのようにしたのでした。

 元禄時代になって、歌舞伎は江戸と上方で大きく発展して行きます。江戸では魅せる場面では動きを止めてその姿を強調する見得(みえ)と花道を引っ込む時の六方(ろっぽう)などの見せ場を売りものにする演技様式に「隈取(くまどり)」をはじめとする化粧、派手な衣装によって豪快さを強調する「荒事(あらごと)」が初代市川團十郎によって形成されました。
▲野郎帽子姿
一方、京都や大坂の上方では坂田藤十郎や、女形の芳澤あやめ等が出て「やつし事」(高貴な身分の人物が見窄らしい姿にやつすストーリー)や近松門左衛門の世話物、いわゆる「和事」芸が人気を博しました。この江戸の荒事、上方の和事という芸風の違いは以後明治に到るまで続きます。

 このような歌舞伎の発展の過程で、京都には芝居小屋が北野、四条河原、五条河原に現れるようになりました。しかし、京都所司代板倉勝重によって芝居小屋は、四条河原に集められ、それ以外の場所で芝居興行をすることは禁止されました。その結果、四条河原には七つの芝居小屋が櫓(座)をあげることが許されました。
今も南座正面の屋根に張り出している櫓と2本の梵天を見ることができますが、それはこの当時の芝居小屋を再現しているのです。
▲隈取
その後、一座の芝居小屋が廃業したものの、残りの六座は享保年間(1716〜35)まで存続していました。しかし興行不振や火災などで廃業を余儀なくされ、ついに明治に入る頃には南座と北座の二座のみとなりました。その北座も明治26年に四条通りの拡幅で取り壊され、京都に残る芝居小屋は南座の一座のみとなったのです。明治時代には顔見世も東京と京都で行われた時期もありましたが、大正2年に歌舞伎発祥の地で行おうということで一本化されたようです。しかし現在では顔見世と銘打っているのは10月名古屋御園座、11月東京歌舞伎座、12月京都南座で、豪華メンバーによる座が組まれます。それでも京都で育った筆者にとっても京都の人々にとっても師走の風物詩であることには変わりありません。
 「吉例顔見世興行」では南座正面に「まねき」が掲げられます。この「まねき」は勘亭流の文字で出演役者の名前を書いた看板のことです。大入りの縁起をかついで内へ丸く曲げるように書き、隅から隅まで観客で埋まるようにとの願いから役者の名前は隙間が少なく書かれているということです。今年(平成19年)は中村錦之助の襲名披露公演を兼ねていることから、書家の川勝清歩さんは「興行が成功するよう、祈りを込めて」ヒノキの板57枚に役者の名前を書き込まれたということです。
 この顔見世興行の間、京都の五花街(先斗町、祇園甲部、祇園東、宮川町、上七軒)の芸妓・舞妓さんが日をかえて観劇する行事があります。これを「顔見世総見」といいますが、南座の桟敷席は装った芸妓・舞妓さん達が並び、椅子席とは違い百花繚乱、華やかな雰囲気が漂います。またこの日を目当てに来るお客さんも多いようです。
この日の舞妓さんの花簪(はなかんざし)には小さな「まねき」がついていて、そこにお目当ての役者さんにサインをしてもらうのが慣わしです。これも冬の京都に欠くことのできない風物詩のひとつになっています。時間があればゆっくりと顔見世を見に行きたいものです。
▲まねきの揚がった南座
▲阿国歌舞伎発祥の地の石碑
(遠藤真治記)
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