10月の声を聞くと、本格的な秋がやってきます。京都の10月の最大イベントは時代祭でしょう。京都三大祭の一つですが、他の2つの祭(祇園祭、葵祭)とは歴史も成り立ちも大いに異なっています。
 1868(慶応4)年1月3日、王政復古の大号令とともに江戸幕府は崩壊し、京都に中央政府が設置されました。人心を一新するために遷都が計画され、7月には「朕今万機を親裁し、億兆を綏撫(すいぶ)す。江戸は東国第一の大鎮、四方輻湊(ふくそう)の地、宜しく親臨以て其政を視るべし。因て自今江戸を称して東京とせん。是朕の海内(かいだい)一家東西同視する所以なり。衆庶此意を体せよ。」と徳川幕府の本拠地である江戸を東京と改められました。そして実際、10月には天皇が東京に行幸しました。
これに対して京都の人々は遷都は京都の「都下衰微(とかすいび)」になるとして、連日反対運動を繰り返し、御所周辺に「お千度廻り(おせんどまわり)」を行ったのです。その結果、2ヶ月足らずで天皇は京都に戻られることになったのです。
1863年の禁門の変で焼土となった洛中の復興も完了しないうちに、事実上の東京遷都が決定されたことは、極めて深刻な影響を及ぼしたと言わざるを得ません。明治2年3月には再び明治天皇が東京へ行幸啓(ぎょうこうけい)されるに至って、やがて御所周辺の町々が「狐狸の棲家(こりのすみか)」と称されるほどの荒れようだったと記録に残っています。実際、維新前の京都市域内外の人口は、35万人にも及んだといいますが、明治5年には24万人に減少したそうです。しかも人口減少には宮家、公卿、有力町人など京都産品の有力な購買層が含まれていたことが京都経済の衰退に拍車をかけたのでした。

 しかし、千百年を誇る都をこのまま衰微させる訳には行かないと考える人もいました。第二代京都府知事にもなった京都府参事槇村正直は京都の近代化政策を推し進めました。明治2年には市民が提供した基金により小学校会社が設立し、小学校の運営が始まりました。西陣においてはフランス式ジャガード機が導入され技術革新が行われました。明治3年には、現在の二条木屋町付近に京都舎密局(せいみきょく 理化学工業研究所)を設置して、石けん・ガラス・里没那垤(レモネード)・依剥加良私酒(ビール)・鉄砲水(ラムネ)などの製造を始めたほか、女紅場(にょこうば)という女子の職業訓練所なども開設されたのです。
京都舎密局にはドイツの技術者ワグネル氏が起用され、島津製作所創業者である島津源蔵氏、陶磁器の永楽善五郎氏、七宝焼の前田嘉十郎氏など多くの人材を育てました。
京都舎密局跡

ワグネル技師

 第三代京都府知事になった北垣国道は京都の復活の為に琵琶湖疎水を完成させ、その水を利用して明治24年に水力発電所を完成させました。28年4月1日には、平安遷都1100年を記念して、東京で開催されていた内国勧業博覧会を誘致したのも、疲弊衰微した京都の復興のためだったのです。この年、2月1日には水力発電の電力を利用した日本最初の路面電車も走らせました。この日は東洞院塩小路停車場(JR京都駅)と伏見下油掛間が開業しました。内国勧業博覧会開催日の4月1日には京都駅の停車場から博覧会会場を結ぶ路線を開業させています。これで、伏見港から会場までの交通手段も完備したのです。
博覧会の会場となった岡崎の地は、もとは野菜畑だったのですが、この地に工業館、農林館、美術館、器械館、水産館、飲食店などの建物がパビリオンとして建てられました。そのパビリオンのなかに平安宮朝堂院を模して造られたものがありました。その落ち着いた雰囲気と建物の精巧さが評判となり、博覧会終了後はこのパビリオンを残す事になったのです。
第三代京都府知事北垣国道

それが現在の平安神宮なのです。祭神は平安京遷都を行った京都の始祖ともいうべき桓武天皇です。
紀元2600年にあたる昭和15年には京都で最後に薨去された天皇である孝明天皇が合祀され、社殿や回廊が増築され現在の姿になりました。
 神宮の管理と保存のため平安講社が作られ、その記念事業として「祭り」が行われることになりました。
平安神宮応天門
その祭を創造していく過程で提案されたのが、「東京奠都以前の京都の風俗を、時代を遡る」行列を衣装を纏って、京都御所から平安神宮まで歩くというものでした。そしてこの祭りの名前が「時代祭り」と決定されたのです。

行列は、今も全京都域からなる市民組織「平安講社」によって運営されています。
平安神宮大極殿
時代祭の隊列は先頭から
@維新勤王隊列(右写真)=実際に官軍に参加した丹波山国村の郷土が組織した山国隊列。

A幕末志士隊列=吉田松陰、桂小五郎、坂竜馬など、幕末維新に活躍した人物。

B徳川城使上洛列=奴(やっこ)がかけ声とともに槍を投げ渡し、徳川幕府が皇室への礼を示すために行った上洛行列。

C江戸時代婦人列=徳川家重に降嫁した皇女和宮など、江戸時代を代表する女性達とその侍女たち。

D豊公参朝列=豊臣秀吉が慶長2年、秀頼の元服の報告のため御所へ参内したときの様子。大名及びや従者に最正装の牛車が続く。(右写真)

E織田公上洛列=織田信長が永禄11年(1568)、立入宗継・羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益・柴田勝家らの武将と鉄砲隊と弓矢隊を従えての上洛。
F楠公上洛列(右写真)=元弘3年(1333 吉野時代)、楠木正成が紫裾濃(むらさきすそご)の大鎧を着用して隠岐から戻ってきた後醍醐天皇を迎えて上洛。

G中世婦人列=淀君、白拍子姿の静御前、大原女などの中世女性たち。

H城南流鏑馬(やぶさめ)列=後鳥羽上皇が、承久3年(1221)、権威回復のため、城南離宮で近畿10余国の流鏑馬の名手を集めて競わせた様子。
I藤原公卿参朝列=平安中期以降の藤原道長らの華麗で優雅な参内の様子。

J平安時代婦人列=巴御前、常磐御前、紫式部、清少納言(右写真)、小野小町らの華麗な姿。

K延暦武官行進列=延暦20年(801)の坂上田村麻呂の出陣姿。

L延暦文官参朝列=延暦年間の文官たちの参内の様子。
さらに、神け講社列、神幸列(孝明天皇、桓武天皇の鳳輦(ほうれん 神様の乗り物)の行列)、白川女献花列、弓箭組列と続きます。
 ここで、お気付きでしょうか。現在の日本文化の原点ともいえる北山・東山文化の室町時代風俗が欠けている点です。この時代をカバーするためにわざわざ「吉野時代」という表現をして楠木正成を登場させています。
明治期に祭が始まった際、室町幕府の初代将軍であった足利尊氏は「逆賊」と見られ、楠木正成が忠臣であるとの見方が支配的だったのでしょう。創設当時の史観が窺える面白い事実です。
ただし、今年の平成19年より桓武天皇崩御1200年記念大祭を機に新たに室町時代列が加わることになったのも史観の変化なのでしょう。
時代祭に登場する調度、衣裳、祭具は12000点にもおよび京都の多くの研究家による完璧ともいえる時代考証のもと、伝統工芸の技術を集めて、糸一本、塗り物に至るまで研究され、可能な限りその時代の材料を使って作成されています。まさに千年に及ぶ生きた本物の時代絵巻が繰り広げられるのです。
(上写真は平成19年から新たに加わった室町時代行列)
(遠藤真治記)
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