-日本列島を巡る海上往来-  第8回

 日本列島の周辺は太平洋と日本海を流れる暖流・寒流があり、北海道・本州・四国・九州・沖縄などを隔てる海峡・内海、さらには広く分布する多数の離島など多彩な気象的変化をする海によって囲まれている。

大陸との間は海によって隔絶していたと考えられていた縄文時代にすでに海に乗り出す人々が列島にいて、大陸と往来したり、海峡を乗り切って主要な島を往来したり、また南島に進出して、交流・交易を行っていたという考古学的な証拠が存在する。

 では縄文人はどのような舟を使っていたのであろうか?
今のところ、縄文時代の遺跡から発見されているのは丸木舟だけである。すでに、数百艘が発見・発掘されているが、そのうち確実に縄文時代の丸木舟とされているのは数十艘である。
東京都中里遺跡から出土した縄文中期初めの丸木舟。
旧東京湾の汀線部分から、舳先を海に向けた状態で大型の
丸木船が発見された。   東京都北区教育委員会 所蔵
代表例としては長崎県大村湾奥出土丸木舟(縄文前期、船底部のみ)、東京都中里遺跡出土丸木舟(縄文中期)、千葉県多古町出土丸木舟(縄文中期前後)などがある。

 大村湾の例は、海辺の湿地から見いだされた丸木舟の船底部で、残念ながら両舷側、舳先(船首)、艫(船尾)は失われていた。現存長6.5m、厚さ2.5〜5.5cm、最大幅76cmで、舟材はセンダンの木が用いられていた。

原型はおそらく、7mを超える大型の丸木舟で、大村湾はもちろん針尾瀬戸を出て外洋の航海にも耐えることができたと思われ、東シナ海沿岸に分布する縄文前期の貝塚を形成した人々と交流・交易を行うときに用いられた可能性が高い。

 中里丸木舟は東京都中里遺跡の縄文中期の海岸線や波蝕跡の特長を示す、いわゆる「中里海岸」で発見されたことから命名されたもので、その海岸の汀線から舳先を東京湾(東)にむけ、いまにも漕ぎ出さんばかりの完全な姿で発見された。
全長5.79m、最大幅72cm、両舷側の深さ約45cm、厚さ2〜5cmでほぼ完全な形で残されていた。舟材はムクノキで、軽石のようなものでていねいに磨かれていた。このサイズであれば、東京湾から乗り出して外洋を航行することもできたと考えられる。

 つぎの千葉県多古町の例は、栗山川の支流、多古橋川と借当川の合流点近くから発見された丸木舟で、長さ7.45m、最大幅70cm、両舷の一部は失われていたが現存の深さ20〜40cm、厚さ15cm、舟材はムクノキで、全体は鰹節形をしていた。

興味深いのは丸木舟の舟底が縄文中期のカキ貝層に接していたという所見と、舳先近くに直径15cmほどの長めの砂岩が2個のせられていたという報告である。石を産出しない千葉県の遺跡から、貴重な砂岩が舟に乗せられたまま発見されたということは、この丸木舟が砂岩の採集に用いられていたという可能性を示している。

川を下って、古九十九里海にで、外洋を航行して茨城県北部まで北上しなければ、この種類の石を採集することはできない。

 このように縄文人は丸木舟を用いて、日本列島のいたる所で海外や離島をふくめた交流・交易を行っていたと考えられる。
これまで発掘された丸木舟からは帆柱を立てる穴などの仕掛けは発見されておらず、櫂のみが多く発掘されている。
従って、丸木舟はペーロン漕法(漕ぎ手が進行方向に向かって座り、手で漕ぐ)によって航海しており、海に生きる縄文の人々は当然活動する海域沿岸の海底の地形、暗礁や潮の干満、さらには潮流や反流とその季節変動などを経験的に熟知していたに違いないと思われる。

  先史時代の交易を証明する手がかりとして、特定物質の原産地と出土するその遺物の分布のデータを、同心円的に広がる交易圏としてとらえる、あるいは放射状に伸びていく交易路の指標とすることができる。

歴史的に有名な例としては地中海の黒曜石がある。地中海東部(ギリシャ南部)のヴィーナスで有名なミロス島は黒曜石の産地であるが、その石がギリシャ本土からイタリアの南部まで行っている。

この黒曜石の交易圏の上に乗っかって出てくるのが、青銅器時代のエーゲ海文明であり、黒曜石交易の基礎があってはじめて航海による貿易国家ができたと考えられている。

 日本列島においても黒曜石は重要であり、縄文時代のみならず旧石器時代にもすでに石器の素材として珍重されており、一部では弥生中期に至るまで交易の対象とされていた。黒曜石は黒色の火山性のガラスで、割るとガラスと同じように鋭い刃部があらわれる。

それを利用して、縄文時代には主として石鏃(矢尻)や槍状石器また石匙(皮を剥ぐナイフ)などが作られた。
なかでも石鏃は、黒曜石で製作すると少ない手間でよいものが得られるので、狩猟社会における必需品であったと思われる。

日本列島の場合は、その東西南北に黒曜石の産地があり、活発な航海が行われたであろうと推測する証拠を各地に残している。
即ち、東シナ海沿いの佐賀県伊万里市の腰岳の黒曜石は沖縄本島と韓国釜山の東三洞遺跡へと南北に動いている。

北海道産の黒曜石はかなりの量が沿海州に運ばれている。大分県の姫島産出のものは瀬戸内海一帯に運ばれている。
関東では、天城や箱根にも黒曜石が産出するのだが、もっとも良質な神津島産が縄文時代全期間を通じて海を越えて運び出され、その分布は南関東から東海地方東部におよび、さらに川を遡上して遠く北関東まで運ばれていくようになる。

太平洋側の神津島と同じ立場にあったのは、日本海側では隠岐島でこの二島を核に海上交通とそれに伴う航海技術が発達したことが明らかである。
これらの知見は科学的機器分析の進歩により、出土した黒曜石の産地を特定することが可能になったことによる成果である。

 分析科学の応用の結果によって、学説が大きく変わったものに硬玉ヒスイ(翡翠)の原産地がある。
原産地についていろいろな推定がおこなわれていたが、いま、日本列島各地ででている縄文・弥生・古墳時代の硬玉ヒスイは蛍光X線分析で調べたかぎり、すべてが新潟県の姫川流域が原産であるとの結論となった。

透明感のある淡い緑色の神秘的な硬玉は、祭祀・儀礼に欠くことのできない呪的な装身具であった。
集落遺跡などから出土した硬玉ヒスイ製の大珠は日本全国で約250点に達しており、姫川流域から海路・陸路を通じて運ばれたのである。

南は薩摩半島の縄文晩期の遺跡から硬玉ヒスイが出土しており、ここを経由してさらに南島にも渡り、沖縄の数遺跡でヒスイ製品の出土が記録されている。

 今から約6400年前の縄文早期末、種子島の西約60kmの海底で、鬼界カルデラの大噴火がおこった。
そのとき噴出したアカホヤ火山灰は、九州全土はもちろん、四国、関東、東北地方にまでおよび、南は奄美大島にまで達した。

そして、そのとき噴出した火砕流と火山灰によって、南九州の縄文早期文化は壊滅的な打撃を受けたのである。
大噴火ののち約100年を経て、アカホヤ火山灰層の上をふたたび照葉樹林がおおうようになると、そこに新たな土器の文化が誕生する、最初に轟式続いて曽根式土器である。

いずれも熊本県宇土市の同名の貝塚から出土する土器を標式とする縄文前期土器である。
南九州から海を越えて南下する最古の轟式土器は、種子島や屋久島で見出されているが、さらに対馬海峡を越えて韓国慶尚南道でも発見されている。そのあとに登場する曽根式土器の分布はさらに広く、西は釜山の貝塚から、南は沖縄本島の数遺跡から出土している。
種子島、屋久島さらに奄美大島の遺跡は海を舞台に活躍した曽根人自らがストレートに渡ってきたところと推定されている。

 大型の丸木舟を製作するためには巨木が不可欠である。地中海の航海民族であるフェニキア人がレバノン杉を確保していたことは広く知られている。

縄文人も舟用の木材を重要視していたであろうと容易に類推が可能である。
青森の三内丸山遺跡をはじめ、秋田・富山の縄文遺跡でも、普通の竪穴住居と共存して、巨木柱の大型建物が出ている。

これらの巨木はまた丸木舟の材料でもある。興味あることは、縄文時代の大型建物や巨木柱に一定の単位が見いだされたという報告である。

即ち、長野、岐阜北部を含む日本海側水系の地域の遺跡で発掘された巨木柱の建物は、年代的には何千年にも亘っているのであるが、共通性のある単位の有無について精査したところ、これらに35cmという共通の単位が使われていることが見いだされた。
「縄文の物差し」とでもいってよいであろう。

一方、中国の日本海に近いところの新石器時代の建物について、基準尺を求めたところ17.1〜17.6cmであった。

若干のバラツキはあるものの、35÷2か17.5×2かはともかく、建築物について同じ系統の数値がそれぞれ別途に割り出された。このことから、日本海沿岸地域では大陸と明らかに人と知識の交流があったと考えられる。

 縄文時代を通じて、古代人が丸木舟を駆使して、列島の東西南北を自在に航海していた姿を想像すると楽しい気持ちになる。最近では、丸木舟と手こぎ漕法という同じような条件で、当時の航海のあり方を経験しようという試みも行われ、隠岐島から島根半島へ、対馬から朝鮮半島南岸へなどの成功例がレポートされている。
(岡野 実)
文献 1)海を渡った縄文人−縄文時代の交流と交易 橋口尚武 編 小学館(1999)
    2)この国のすがたと歴史 網野善彦・森浩一 対談 朝日選書 (2005)


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