-わだつみに生きる海人・倭(人)- 
                                             第9回
 大陸から隔絶していると考えられていた縄文時代にも、日本列島には丸木舟を操って果敢に広く漂海する海人がいたことを示すいくつかの証拠を例に挙げて、前回紹介した。その時代における彼らの人数や分布はもとより審らかではないが、天変地異のない限り、時の流れとともに人口が増え、勢いを伸ばしていったであろうことは容易に類推できることである。
かれら海人は当時の中国では倭とよばれていた。

 中国の古い文書に描かれている、かれら倭・海人は中国の南部の沿岸から山東半島、遼東半島、南朝鮮の多島海の島々、済州島、日本の北九州、瀬戸内海の島々といった沿岸を漂海していた。秦代(前221〜)にはすでに存在していたと考えられている古代地理書「山海経」には、舟を家として時に遠く海を行き、陸の権力に拘束されない「倭」として登場している。ここに登場する「倭」が国の形をなしていたとは考えにくい。

山海経の時代には、朝鮮半島の人々もまだ登場せず、古代中国人は主として海上を移動する「倭」のほうを先に見たのである。

 さて、倭人の先祖に触れている中国の史料「魏略」には、倭人の風俗としての文身(刺青)について次のように説明している。
倭人の「旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后小康の子が会稽に封ぜられ、断髪・文身をしてもって蛟竜の害を避けた。
今の倭人もまた文身をして、水のなかでの害を厭えた」。これは唐代にできた「翰苑」に引用されているいわゆる「魏略」逸文の一つである。

「翰苑」は中国で早く失われたが、日本の太宰府に伝わっていた。その番夷部に上述の箇所があるが、かの「魏志」の倭の水人の記事「今の倭の水人は好んで水中に沈没し魚や蛤を捕る。(そのため)文身して大魚や水禽(の害)を厭った」は文の表現を少し変えているが、「魏略」のこの記載を下敷きにして執筆されたことはよく知られたところである。

  「倭人の旧語」とは倭人のもっていた伝承ということであろう。
その伝承とは“自分たちは太伯の子孫だ”という内容である。「漢書」には春秋時代の呉の太伯は、華北の禹の後裔、夏王朝の小康皇帝の庶子が“会稽に封ぜられ、文身・断髪をしてもって蛟竜の害を避く。

後二十世にして勾践が王を称するに至る”とある。さらに「史記」の呉太伯世家の項では“周の太王の長男の太伯が弟に政権をゆだね、自らは荊蛮の地に落ちのび、文身・断髪をし、王となって呉の太伯といわれるようになった”という。
太伯は中国の伝承上の人物だが、華北の漢人とは異なる風俗である文身・断髪した人々のいる華中の王であり、倭人はその子孫だというのである。

この倭人の伝承を古代中国の人々は否定せずに認めていたようである。
(注;上述のように史書は混乱しているので要注意、会稽・今の紹興に都があったのは越の国、周の太白が推戴されて王となったのは呉の国、都は蘇州近辺である。)
●会稽山の一角に立つ禹の像と古代の帝王「禹」の陵
(今の紹興市)

 会稽を含む華中の主要部を、長江(揚子江)の下流の南の地域である江南と呼んだ方が判り易い。
ここは水田稲作の発祥の地で、稲の生産力が高く、水準のたかい文化を保持していた。
しかし地理的関係から中国の統一国家の中心にはなりえなかった。
また会稽の外港である寧波は古代の中国と日本を結ぶ最重要航路の基点であった。
江南では呉と越が長く戦っていたが、前473年越王勾践は呉王夫差を破って遂に呉を滅ぼし、その勢いに乗り山東半島の瑯?に進出し、そこに都を移したと云われる。
越王が山東半島に遠征したときの軍船は「桴」という筏のような舟をつくらせたという。
二層になっていて、下層には漕ぎ手がいて、上層には戦士が乗った図が残されている。

 江南(呉越)文化の中では、海人の色の濃い越文化のほうに倭人はより強く影響を受けているという見方が強い。前334年、楚の攻撃にあって敗亡した越人は、舟に乗って東海の浜に四散し、百越というように小さな国々にわかれたといわれる。

その結果、中国の東シナ海から南シナ海の沿岸部には越人系の人々が帯状に群居していた。
越人と倭人は漢民族の地域にたいして共同行動をとることもあったし、文身・断髪を含め共通の習俗をもっているとみられていた。
さらには、北上した越人の一部が九州に渡来して水田稲作をもたたらし、弥生時代の発展に関わったのではないかと云う説も存在している。

 日本列島には約425の島がある。そのうち北海道、本州、四国、九州の主要4島以外の島を離島と呼ぶ習慣がある。離島と云えば交通不便な土地という印象であるが、舟を使うとある島からは容易に大陸に渡ることができたという観点からは、離島のほうが大陸に近いということもあった。

日本列島の海上交通は、島々をつなぐことによって網の目のように発達してきたのである。
古くから、日本列島に住む人々は季節的な移動をするなどよく旅をしていたという考古学的証拠がある。

 縄文時代、弥生時代あるいはそれ以降の古代のどの時代でも、日本列島のムラには情報通の老人がいて大事にされていた。ムラの若者が交易などの目的で初めてよその土地へ旅をすることになった場合、若者は情報通の老人に教えを請い、老人に海流や風向き、海路の地形−目印の山とか川、潟や岬、海峡や島など−を順々にたどって教えられることによって、目的地への道筋をよく理解してから出発したのである。

海上の交通にとって島は重要であり、「日本書紀」と「古事記」は西日本の島々について大きな島だけではなく、海上交通上の重要度によってその名を挙げている。

また、「記紀」の神話に登場する海や土地に関わる様々な知恵を授けたという「塩土老翁・しおつつのおじ」の原型は、ムラの情報通の老人にあると思われる。

 彼ら海上生活者は陸の人たちから「あま」と呼ばれたが、その漢字表記はさまざまで、海の字だけでその族を表したり、海人や海部と書いて「あま」と訓み、また海女、海士、海郎、白水郎とも表記して、「あま」とよむ。古代、海人にはさまざまなグループがあったらしいが、歴史のなかでとくに際立っているのは安曇(阿曇)氏である。

彼らの居住地が、アズミという地名になっていまも痕跡を残している。愛知県の渥美郡・渥美半島には阿曇連が住んでいた伝承があるからアズミの転化にちがいない。
伊豆の熱海も、熱い湯が海にまで流れていた、という漢字表記による地名考より、アズミの転化と考えた方がよさそうである。

彼らの一部は川をさかのぼって内陸に入っていった。そのことを示す名残の地名として、琵琶湖西岸の安曇町・安曇川があり、また信州には安曇野がある。
ほかに、安積、厚見といった表記の地名もアズミ居住地だった名残である。

 安曇氏は北部九州で古代日本を代表する海人族として名を挙げたが、そのルーツがどこであるかは明らかではない。
「魏志」倭人伝には対馬や北部九州の海岸地帯の人々が、十分な農作物を得られず、南北に市糴(交易)をして暮らしていると記録されている。
海人は漁労民であるとともに商人であり、広い行動範囲を生かして旺盛な交易活動を行い、かえって豊かな暮らしをしていたと考えられる。

国境のない海で想像を絶する行動範囲をもつ南の海人族がやってきて、はじめ隼人らとともに南九州に住みつき五島列島(白水郎)を経て、さらに北九州に進出して安曇氏となったのではないかと推測できるのである。
 海人について興味深い傍証が次のように二つある。
まず、日本で「馬肉」を食べる風習のある地域は、熊本と長野である。遠く隔たった二つの場所で、馬肉を食べていたのは、偶然ではないらしい。
馬に関わる人々が、熊本と長野に存在し、しかもつながりをもっていた疑いが濃く、それに隼人と白水郎が関わってくる。
海の民ではあるが隼人・白水郎はその居住地域で馬や牛を多く飼い、また「騎射」を得意としていた。
かれらは大海原を駆けるが、また、川を遡上もした。

このとき、馬を舟から降ろして、舟を引かせていたのである。これら部族を包含した安曇氏は舟を造る大木を求めて、日本海から川をさかのぼり信州に拠点を作っていた。
こうしてまったく関係のないと思われた地の食習慣が、意外な形でつながっていたわけである。

 次に、日本で発見された成人T 細胞白血病(ATL)はヒトT 細胞白血病ウイルスI 型(HTLV−1)が、Tリンパ球に感染することによって発症する白血病である。

この病気は外国ではカリブ海地方にみられるだけで、特異な地理病理学的分布を示している。

わが国の流行地としては、長崎県、鹿児島県、熊本県で発生率が高く、つぎに愛媛県・高知県、さらに和歌山県などと報告されている。

この蔓延地の跡を辿ってみると九州北西部および南部、四国西南部、紀伊半島、三陸海岸、佐渡、能登半島など明らかに海人的で縄文的伝統の色濃い地域であることが判った。

特定の部族(海人)から派生した人々が何千年にも亘って、このレトロウイルスのキャリア−であることは極めて注目に値する事実である。
(岡野 実)
文献 1)古代史おさらい帖森浩一筑摩書房(2007)
    2)稲作渡来民池橋弘講談社選書メチェ(2008)
    3)天孫降臨の謎関裕二PHP 文庫(2007)


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