-渡来人とはなんだろうか?-  第7回
 弥生時代には大陸から水稲稲作や金属器(青銅器・鉄器)がもたらされ、その後の日本文化に大きな影響を与えた。物だけではなくそれに関連する技術が渡来人によってもたらされたわけである。
大陸からの人の渡来は弥生時代に入ると増加の傾向が高まり、さらに紀元前3世紀ころから後7世紀ころまで、かなり多数の渡来人が集団として大陸からやってきた。

したがって、この約1000年間の渡来人がどのような集団であったか、という問題は古代史にとってきわめて重要である。

 さて、まず日本人の祖先について何が判っているかであるが、現代日本人の直系の祖先と思われる最古の骨は、那覇市近郊の湊川(みなとがわ)で発見された湊川人である。

これは後期旧石器時代(約1万8000年前)の人骨で、その後の縄文人に似ていると同時に、同時代の柳江人(中国・広西省)やニア洞穴人(ボルネオ島)などに近い。したがって、湊川人は東南アジアや東アジア大陸南部の集団と近縁性をもっていることがわかる。

このことから、その子孫に当たる縄文人もまた東南アジア系統の集団と思われるが、この推論は人骨の形態学的特徴からも裏づけられている。


 湊川人の時代は、文化的には後期旧石器時代に当り、自然環境からみればヴュルム氷期の最盛期で、「地球がかつて経験した最も寒い時期」であった。
気温が下がると海水面も降下する。それは、雨や雪として地上に降る水の大部分が凍りついて海に戻らなくなるからである。そしてヴュルム最盛期には、日本周辺で100メートル以上の海面降下がおこり、少なくとも日本列島の一部はアジア大陸につながるか、あるいは狭い海峡を隔てて大陸と向き合う形となった。

 約1万年前に氷河期が去り、縄文時代(新石器時代)が始まった。
この時代になると、日本列島には北海道から沖縄まで人が住むようになる。
彼らは独特の土器を作り、世界でも珍しいと言われる縄文文化を成熟させた。

彼らは共通して古い東南アジア系集団の特徴を持ち、少なくとも、形態学的に北東アジア的要素は見られない。縄文時代は後氷期(氷河が去った時代)で海面は上昇し、日本列島は現在の状況に近くなった。

したがって、縄文人は列島内に閉じ込められ、大陸との交渉はほぼ一万年にわたって断絶に近い状態だったと思われる。縄文文化が独特の発達をしたのも、また縄文人が比較的均一な集団を形成したのも、このような地理的条件と無関係ではあるまい。

 縄文時代はほぼ2700年前に終わり、弥生時代となって、大陸から渡来人がつぎつぎとやってくるようになる。弥生時代の渡来人の遺跡と思われる山口県・土居が浜遺跡や佐賀県・三津永田遺跡の人骨を研究した九州大学の金関教授は、彼らが朝鮮半島北部に由来すると考えた。

しかし多くの東アジア民族の頭蓋データを数量分類学的に分析すると、渡来人の原郷はさらに広く、中国北部、東北部、モンゴル、内蒙古、ないしはバイカル湖以東の東部シベリアに求められることが明らかとなった。

 これらの集団はいずれもアジア系集団に属するが、数万年にわたる極端な寒冷気候への適応によって特異な進化をとげた。たとえば縄文人では長頭、低顔(四角ないし丸顔)で顔の凹凸に富むが、これに対して北東アジア人は短頭、高顔(面長)で顔面は平坦である。

また男子の平均身長は縄文人の約156センチメートルに対して、渡来系弥生人は163センチメートル前後でかなり高い。

 北東アジアの気候は今でも寒冷である。
北海道の旭川では1月の平均気温はマイナス7度前後であるが、これに比べてシベリアのアムール河やレナ河の流域では、マイナス40度以下に下がる地域が少なくない。

氷河時代の人びとは近代的な暖房設備も防寒具もなく、その寒冷気候に長い間耐えなければならなかった。

このような過酷な気候に耐えるためには、まず住居、衣服、生業形態など、文化の面で適応しなくてはならない。
だがこれに加えて、身体的な適応に成功しなければ、彼らはおそらく絶滅の運命をたどったに違いない。

 どんなに寒いときでも、顔は直接外気にさらされる。また生理的に肺は外気に通じているが、その通路はやはり顔である。したがって寒冷地住民の身体的適応は顔にもっとも強く現れ、ついで全身の大きさとプロポ−ションに現れる。

 まず顔については、凍傷を防ぐために鼻を低くする必要がある。一般に突出部では血管が細く、また寒冷時にはそれが収縮するために皮膚温度が下がり、凍傷にかかり易い。

だから鼻は低いほうが寒さに対して有利である。また肺に入れる空気は、まず鼻腔や上顎洞(上顎骨の中にある空洞)で温度と湿度を調節なければならない。

したがってマイナス40度以下という冷たい空気を瞬時に調節して肺に送り込むためには、これらの「空調機」の効率を格段に高める必要がある。

そのために上顎骨が横と縦に広がり、それでも足りなくて頬骨が前方に突出するようになる。このようにして、北方アジア人は扁平で面長な顔を獲得した。

 体の大きさについては、大型の方が寒さに対して有利である。
一般に体温の蓄積量は体重に比例し、放散量は体表面積に比例する。
そして体重は身長の三乗に比例し、体表面積は二乗に比例するから、身長が高いと相対的に体重が増し、体表面積は狭くなる。

したがって高身長は寒い地方で有利となり、逆に低身長は暑い地方で有利となる。さらに、胴を大きくして四肢を短くすれば蓄積熱量が増えて放散熱量が減る。

このために、北東アジア人は身長が高く、胴が太く長く、四肢が短くなった。短足胴長という特徴は世界的にも珍しく、北東アジア人独特の特徴といえる。
ところが、この珍しい特徴が多くの日本人に当てはまるのである。

氷河時代でも、北東アジアに比べれば日本列島は温暖な地域だった。したがって、北東アジア人の特徴が日本で出来上がったという可能性はほとんどなく、北からの大量の遺伝子の流入を考えなければ説明がつかない。
そしてこの遺伝子を運んだのが、ほかならぬ渡来人であったのである。

 ここで注意すべきことは、北東アジアからやってきた渡来人が土着の縄文人の子孫(在来系弥生人)を抹殺したり、ヨーロッパ的な意味で征服したりしたわけではないということである。

渡来人たちは少しずつ日本に上陸し、また本国からの強力な支援を期待することができなかった。
なぜなら、当時の中国や朝鮮半島では戦乱が絶えず、渡来人の多くは難民だったと思われるからである。
また渡来人の生業は水田耕作を中心とする農業であり、在来弥生人のそれは−多少の農耕を行っていたとはいえ−縄文的な採集狩猟が主だった。だから渡来系・在来系の弥生人たちの間には土地をめぐる熾烈な争いもなく、比較的平和に棲み分けたのだろう。

 弥生時代を研究する考古学者たちは、渡来人が残した遺跡や遺物など、いわば文化のハード面に気を取られている。しかし渡来人が持ってきたソフトにも注目する必要があるだろう。

それは彼らの政治能力である。渡来人はすでに農耕民族であり、多くの人の協力と広い土地を必要とするばかりか、アジア大陸では他民族の侵入に対する守りを固めなければならなかった。
そのために集団の団結力が培われ、政治的能力が要求された。

 一方、在来系弥生人は縄文時代以来の伝統の中で部族中心の生活をし、特殊な権力者や政治組織を必要としなかった。だから彼らは組織的なクニを作る必要がなく、多くても数百人程度の集落を作っていたと思われる。

つまり、弥生時代に政治力と軍事力をそなえてクニを作ったのは渡来人だったことになる。
北部九州地方に根をおろした渡来人たちはそこで稲を作り、クニをつくって定住するようになった。

そうすると、当然の結果として人口が増える。またつぎつぎやって来る渡来人も多く、土地が足りなくなっただろう。

そこで彼らは新しい天地を求めて東への移動を開始した。だが少ないとはいえ、日本の各地にはすでに先住者としての在来系弥生人がおり、移動の途中で種々のトラブルが起こったことも考えられる。
唐古・鍵村の弥生人(復元)

神武東征の神話は、この時の苦労を語ったものかも知れない。大和地方にやってきた渡来人の集団は、それまで乱立していたクニを統合して、ついに日本の王権(朝廷)を樹立した。その後平安時代に至るまで、日本の朝廷は積極的に渡来人を招いて大陸の高度な文化を輸入しようとする試みを続けていた。

 人類学的知見を中心に日本人の由来をまとめるとこのようにすっきりしたものだが、弥生人を在来系弥生人と渡来系弥生人に区別するのだけは一寸いただけない。
もっといい表現はないものか? 渡来人という用語には歴史的しがらみがあって、1950年代までは、記紀に書かれている「帰化人」という言葉が使われてきたが、これは差別的ニュアンスをただよわせるということで排斥され、渡来人という用語への移行がはじまり、1980年代には「渡来人」が大勢になったという。

そうなっても渡来人にもまだこだわりがあるようで、最近のベストセラー「日本辺境論」のいうように、敗戦のトラウマの影響なのであろう。
人の往来は本来自由なもの、辺境にやってきた人々が滞留してそのままいついたのを、渡来人といってもなんの問題もないと思われるのだが。
(岡野 実)
参考文献:日本の古代@ 日本人はどこから来たか埴原和郎編作品社(2003)


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