-弥生時代の稲作と縄文の壁-  第6回
 前回(第5回)では、稲作の起源、縄文時代の渡来、イネの種類およびその渡来の経路などの問題について新しい知見の概略を紹介した。近年の中国における考古学的発掘調査やわが国での遺伝子研究報告により定説とされてきたこれまでの「アッサム・雲南−照葉樹林帯」起源学説は否定されることとなった。

 九州北部では前10世紀後半に水田稲作が始まった(弥生時代早期)。水田稲作とその文化を携えた人びとはどうして、海を渡って玄海灘沿岸の西北九州に移住してきたのだろうか。前提として、南部朝鮮と西北九州の漁労民に日常的な海上の自由な行き来があったことが挙げられる。

また、縄文時代後期以降、九州各地で認められるコメ栽培の存在が指摘される。水田が見つかっていないことからすれば焼畑方式が推測されるが、この経験は水田稲作導入の条件づくりになったことだろう。弥生時代早期から前期にかけての遺跡における食料獲得方式の解明が、これからの重要な研究課題であるが、いずれにしてもこの時期には米依存型生産への移行は無かったと考えられる。

水田稲作をもたらした人びとの渡海は、日常的な往来のなかでおこったもので、中・南部九州や瀬戸内地域に急速に水田稲作が拡大しなかったことからも、渡来人の数・反復の回数ともに多くなかったことは確実のようだ。

 宮崎康平は著書「まぼろしの邪馬臺国」のなかで、歴史学者や考古学者が伝統的に常識としていることに反対する考えを述べているが、その一つとして「米という亜熱帯植物が、北九州より寒い朝鮮半島で優先的に栽培されたであろうか?」という疑問の提示がある。

さらに「植物生理の点から、気候・風土的に、より有利な西南九州は米・稲作の先駆的培養期間に必要な役割を果したはずだ」とも述べている。
初期の水田灌漑法として、「河口の三角州や沖積層形成の進んだ入り江などでは、葦を利用した堤防で干潟の周囲を囲い、一種の干拓地のようなものを作る。そして川の上流の方に水の取り入れ口をあけておく。

この取入れ口からは、常時、川の水は引かない。そうしないと上流の土砂が流入したり、田の土が掘られたり、イネが倒伏するからである。その代わり、満潮になると、海水が河口部に海嘯(高波)を起こして川の流れを食い止めるので、自然に川の水は取り入れ口に流れ込んでくる、という仕掛けであったように思う」との説明は、彼が携わった土木事業の実地体験に裏打ちされた卓見である。
「豊葦原の瑞穂の国」という言葉は上に述べたような実態を表しているという。灌漑水路を設けた水田の発達はずっと後のことである。

 また、宮崎氏は南部朝鮮と北部九州を往来していた漁労民は海人族である穂積・安積(阿曇)であるとしている。半農半漁からその一部が水稲栽培に専門化した海人族は、未開拓だった海岸線のデルタをほとんど利用しつくし、しだいに川をさかのぼり、耕作可能な地を求めて日本全土に散っていった。その歴史は、穂積・安積(阿曇)の全国的散らばり方や、諏訪湖畔までさかのぼっていった実例が物語っている。

さて、稲作の渡来は第1波だけがすべてではない。弥生時代が過ぎていくにつれて、大陸の政治情勢・あるいは地球気象の変化(寒冷化)の影響によって北方から移動の圧力がかかり、より高度の水田耕作・灌漑技術を持つ集団が押し出されるように朝鮮半島から、またはそこを通って波状的に渡来してきた。

弥生前期末には青銅器が到来し、第2の画期といわれる中期以降には鉄器がもたらされ、それを使用するより大規模な農耕の時代となり、次第に米依存型生産経済への移行が進んだ。

稲作には地域の共同作業(堰と水路の建設・管理に費やされる労働の集約や渇水期の利害調整)が必要であるが、そのベースとして社会の仕組みは次第に階層化へと進んでいき、それを示す墓制などの考古学的指標が認められている。やがて早くも負の側面である戦争や環境破壊などが現れ始める。

弥生開始年代の遡及により、弥生前期の年代幅が100年から400年以上に延長した。従来100年間で起きたと見なされていた諸事象が、実は長い期間をかけて生起していたのである。縄文文化から弥生文化への遷移は劇的ではなく、弥生時代前期は縄文文化の延長として捉えたほうが良いかもしれない。

縄文文化と前期弥生文化の同質性・連続性あるいは移行期における縄文文化と弥生文化の質的な差異について、十分に議論される必要がある。

 長くなった弥生時代前期がもたらした最大の衝撃は、水田稲作の生産性の高さに疑問符が付されたことである。以前信じられていた次の2つの通説「前5〜4世紀ごろに九州北部に到来した水田稲作とその文化は、わずか100年強で畿内や東海の一部にまで一気呵成に伝播していった」、および「縄文文化のいきづまり、弥生文化救済論−すなわち食料生産が不十分な縄文文化を、生産性の高い水田稲作による弥生文化が各地で救った」、はいまや見直しを迫られている。

 日本列島における水田稲作は、西から東へ少しずつ時間を掛けながら段階的に伝播し、拡大・定着していった。前10世紀後半に北部九州に上陸した水田稲作は、まず前800年ごろ四国の西部南部に伝わった。

前650年頃近畿圏に到達し、前500年ごろ名古屋で始まっていた。ところがこの先、東進の痕跡がなかなか現れない。関東で水田が確認されるのは前100年ごろ。その一方、日本海沿いに稲作は北上し前400年ごろには青森に到着。そこから太平洋岸を南下していた。関東の稲作は、西からではなく、北から伝わった可能性が出てきた。

 稲作の普及は遅々として進まず、なかでも東海と関東の間には深い溝が見えてきた。これは何を意味するのだろうか?
養老孟司は、イスラム原理主義とアメリカ、若者と老人といった間に、互いに話が通じない理由として、そこに「バカの壁」が立ちはだかっていることを示した。

それになぞらえて、小林青樹は関東と東海の間などにある溝を、縄文人と弥生人の間には「縄文の壁」という相互理解のギャップがあるといい、それには、宗教や信仰、習俗といった精神や心にかかわる世界観、および水田耕作に伴う新しい社会の仕組み(関係する複数の集団、地域の共同作業、複数の集団をまとめる人物、その下に集まる人々)についての考え方が含まれると述べている。

 一方、谷口康浩(国学院大)は「文化の受容や拒否には、それを受け入れる側の動機、志向性が大きく作用する。関東地方には独自の文化があり、異質な文化の受容に反発があったのでは」と考え、小林健一(中央大)は「東海から中部にかけては畑作の文化が広がっていて、その地域の人たちが弥生文化と非融和的だったために、関東への稲作の波及がブロックされたのではないか」と推測する。

しかし、単純にいえば、最近敷衍され出しているように「縄文文化は豊かだった」、だから急いで稲作に走る必要がなかったというところに帰するのであろうか?
筆者はもっと素朴に、当時、イネの運び手である漁労民・海人族の船や航海能力では、遠州灘を越え伊豆半島を回って、関東に到達できなかったのではなかったか?との疑問を持っている。

弥生時代に外洋で使われた船は丸木舟を前後に接合し、舳先を高くし大型化した準構造船で、櫂と櫓で推進した。
この航路の問題点は、潮流である。潮岬を通過すると黒潮本流は伊豆諸島まで、陸地から離れて直線的に流れるが、伊豆沖で東に向かう本流から分流が生じて、伊豆半島沿いにループ状に西に戻り、遠州灘沿岸部を東から西に向かって流れている。

このことは、1998年シチズン時計によるブイの漂流試験(図)で確認されているが、経験的にはこの海域を走る船乗りは従来から皆その知識をもっていたであろう。この黒潮分流は弥生時代も同じ様に流れていたと推定でき、遠州灘の沿岸を逆潮の下で、岸寄りに櫂と櫓で伊豆半島を越えるのはまず不可能であったであろう。

 弥生早期から中期中頃の前10世紀から前2世紀ごろにかけて、日本列島では弥生と縄文の異質な二つの文化が共存していた。

縄文土器の分布圏に表された地域色を濃厚に保ちながらも、網羅型経済−採集・狩猟・漁労・栽培−の縄文文化は、基本的には均質的な文化であった。そこに水田稲作が導入されることで日本列島の文化は、北から続縄文文化、弥生文化、貝塚後期文化の3つに分裂した。

沖縄諸島では漁労を中心とした貝塚後期文化が長くつづき、東北・北海道では続縄文文化が持続した。またその他の各地域では外来文化である稲作文化と、伝統的な縄文文化の結びつきかたで、それぞれの弥生文化は多彩な様相を示している。

弥生時代の日本列島は、かならずしもフラットな文化地域ではなかった。歴史上は通常、時代が弥生時代に変わったら、その時代の人は「弥生人」とする。しかし、縄文から弥生の転換期では実際の話はもっと複雑なのである。

だから、弥生時代についての新しい命名あるいは定義を確立させて、話の混乱を避けるための整理をなるべく早く付けてもらいたいものである。
(岡野 実)
文献 1)(歴博フォ−ラム)弥生時代はどうかわるか 広瀬和雄編 学生社(2007)
    2)コメを選んだ日本の歴史 原田信雄 文春新書 (2006)
    3)変わる弥生像 歴博の研究から 上 朝日新聞夕刊(2009・3・31)


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