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◆ 参詣の人達でに
  ぎわう随心院正門前
  (写真左)

◆ 随心院正門を入った
  本堂(写真右)
◆ 大津市大石と綴喜郡宇治田原町の境界にある猿丸神社(百人一首の歌 猿丸太夫をまつる)(写真左)
◆ 随心院の園内(南東階)にある清滝宮分神社(お参りの人達は清瀧さんと呼んでいる)
(写真右)
後宇多上皇が龍門庄を醍醐清滝宮に寄進★ 
 こうした大石龍門の地とのかかわりを立証するもうひとつのゆるがし難い証拠は、後宇多上皇が正和5年(1316)院宣を下して、さきに照慶門院(亀山上皇の皇女)から伝領された龍門庄を醍醐清滝宮の談義所として寄進されたという史実である。

清滝宮は、山科醍醐寺の鎮守であると共に随心院、通称小野門跡とも深いかかわりをもつ社であり、古来干ばつに際して朝廷の祈雨奉幣が行われた。随心院には清滝宮の分社があって清龍様(せいりゅうさま)と呼ばれている。


 後宇多上皇は、幼少の頃より内外の典籍、ことに仏典を修め、徳治2年(1307)7月、妃遊義門院玲子内親王が亡くなると仁和寺へ出家、法名金剛性と号した。大覚寺のかたわらに住み、世事を捨てて密教を治め、東寺で灌頂を受けた。

上皇はさらに真言宗の二大法流である小野、広沢両流の奥義をきわめ、特に小野流の本山である随心院とは深いかかわりをもつようになった。龍門庄を清滝宮に寄進したのも小野流密教への深い帰依によるものであることは疑いをいれない。


 もちろん、龍門庄は後宇多上皇が清滝宮に寄進される前から小野巫祝の徒のしきりに出没する地域であった。平安期の「山槐記」には、すでにその名が見えるところをみれば龍神信仰ないし雨乞いの行事の伝統は清滝宮のさん下に入る前からあったといえる。

むしろその他の龍神信仰、雨乞い行事などとの深いかかわりゆえに、あるいは既に小野流密教に先がけてあった小野流巫祝の徒の一拠点であったが故に、小野流龍神信仰のメッカとでもいうべき清滝宮に特に寄進すべき荘園として龍門の地が選ばれたものと考えられるのである。


龍宮は常世国★ 
 かくして大石龍門の地が小野流密教とかかわる龍神信仰、龍宮信仰の一点であり、佐久奈度の滝を導入口として龍門があり、さらにその先に展開する龍宮があるわけであるが、既に触れたように、龍宮信仰は渡来人のもたらしたものである。従ってそれに先がけて日本人が持ち伝えてきた他界観がなければならない。それが「常世国」というのである。

大和民族が持ち伝えた「常世国」の思想が外来の龍宮思想と容易に習合したことは多くの学者の説くところである。常世国も龍宮も共に海上他界、あるいは海中他界であり、ともに豊饒の源泉と考えられていたところに、この2つの他界観念が容易に習合してゆく契機があった。


 すなわち常世国は「トコヨのクニ」常にヨが常在するところという意味がある。「ヨ」は奄美、沖縄の南島では「ユ」と呼ばれている。南島ではO音はU音であるから南島の「ユ」は「ユー乞い」の祭りや世積綾船(ユヅミアヤフネ)の思想に見られるように「豊かさ」あるいは「共同体」を繁栄させ、五穀を実らせ、人間に長寿を与える「生命力」を意味していた。

このように「ユ」は、豊饒あるいは生命力という意味であるから「ユ」の常在するところ龍宮あるいは南島の「ニライ・カナイ」そして常世国は永遠の生命力と豊饒の源泉と限定できるのである。


 この常世国と伊勢とはきわめて密接な関係を持っている。「常世浪の敷き寄せる」といわれる国は伊勢であり、常世浪には永遠の生命力が宿っているのである。古来伊勢が日本のなかの最も聖なる地とされたのも伊勢が大和朝廷に最も近い東の海から太陽が昇る国であるからである。

太陽はすなわち常世国の生命力の源泉である。従って東の海から太陽の昇る国は常世浪が絶えず洗いつづける波であるから格別生命力のみなぎり溢れている国でなければならない。

ここに伊勢が日本のなかでも最も聖なる国と考えられていた理由があるのである。伊勢は常世浪の敷き寄せる常世国に直面したところ、あるいは常世国そのものなのであった。


 佐久奈度社を核とする地域が「オイセ」あるいは「元伊勢」と呼ばれてきた理由は、まさにこの点に存在していた。南島において聖なる泉がそのまま地下を通って海上他海である「ニライカナイ」に続いていると考えられていたように、佐久奈度の滝つぼは、そのまま常世国伊勢の海と象徴的につながっていると考えられていたのである。
 さらに小野道風の遺墨というのも伝わっていて、小野氏との深い関係を思わせずにはおかない。もちろん小野流の密教が古来、近江の小野郷と共に猿女(さるめ)(神祇官職のひとつ。大じょう祭などの神楽の舞に奉仕する女。広辞苑参照)の養田のあったといわれる山城小野の地に発生し、さらに小野との深い縁由をいう限り、小野密教は、小野流の創始者仁海僧正よりはるかに先がけて存在した小野流巫術あるいは、それを支えてきた集団を基底として創始されたものであったに違いない。

 ところで大石・龍門の地と小野流巫祝(ふしゅう)(みこ、神主、広辞苑参照)の徒との古いかかわりは不明である。
しかしながら宇治田原、奥山田、大石龍門などに伝わるベンズリ様、びんずる像(十六羅漢の第一で白頭、白眉の相を具え、仏勅を受けてねはんに入らず天竺に住んで来世の供養に応じ大福田になるという。
我国では俗間にその像を宝珠でなで、持病のなおるのを祈る迷信がある。広辞苑参照)を中心とする古風な雨乞い行事は、恐らくこういった小野流巫術の管理するものであったろう。


★猿丸太夫と田原籐太は表裏一体★ 
 現在宇治田原町と大津市曽束町との境界に鎮座する猿丸神社も、祭神の猿丸太夫が一名・小野猿丸といわれ、さらに日光の二荒山中において、大蛇に変身した二荒山神を助けて、ムカデの姿となった赤城山神と戦い勝利をおさめたという説話の存在から、やはり小野流巫祝の徒のもたらしたものに違いない。

殊に田原籐太と下野との密接な関係、田原籐太が平将門討伐に際して猿丸太夫と深くかかわる宇都宮の二荒神社(別名宇都宮大明神)に参詣したという伝承をもってするならば、小野流巫祝の徒と秀郷流藤原氏とは、宇治田原、大石龍門の地において、さらには下野においてまさに表裏一体の関係にあったとしなければならない。
それは恐らく後の将軍家とお庭番の如き関係だったのではないか。

 随心院は、小野流密教の開祖・仁海僧正がみずから寛文2年(1244)に開基した寺で、はじめは曼茶羅寺と称し、如意観音が本尊であった。
一説に小野小町の旧宅跡といわれ、境内には小町化粧井戸(写真右横)といわれるのがあり、また小町作の地蔵尊も伝えている。
この地蔵は小町宛の恋文を張り合わせてつくったものといわれている。
   ◆ 小野小町が毎日化
     粧のたびに使った
     といわれる化粧井戸
龍宮思想は小野氏が普及★ 
 龍宮思想というのは中国からの借用である。龍女、龍王などの思想は平安時代から見られるが龍宮という語が初めて使われたのは「御伽草子」といわれるから、室町時代ということになる。いずれにしても龍宮思想というものはそんなに古いものではない。それにもかかわらず龍宮思想が広まっていったのは、それを熱心に広める集団が存在していたことと、龍宮思想に先立って、それと類似の日本人独特の他界観念があったからである。

 龍宮思想を持ち歩いた集団のひとつに小野氏がある。小野一族は近江、山城、大和にその拠点をもっていたが、われわれがいま問題にしている京都府綴喜郡宇治田原町、大津市大石龍門の地と密接な関係をもった小野一族は、山城・小野の地を根拠地としていた集団であり、後に京都市山科区醍醐の随心院を中心として勢力を伸長していった一派である。
第12回  −田原籐太秀郷と龍宮(終)− METRO No.138