草津宿のネック天井川   
 草津川は草津宿のすぐ北側にあり、一名砂川と呼ばれ、川幅は24bもあるが平常はほとんど水のない文字通りの砂川だった。だがこの川の水源・大津市田上の連山にあった大量のヒノキ、カシ、スギの美林が奈良朝の建設や寺院の建立に使われてハゲ山と変わった。(本誌135号、田上の山々で紹介)このため大雨ごとに花崗岩質の山肌は風化、下流へ土砂となって流出、堆積して川底が年々上昇、平地とは一段も二段も高い天井川に変化していった。このため現在の草津市は東西に流れる草津川の天井川と南北に走る東海道線で四分割されるような形となっている。

 往時、中山道を上下する旅人は、高さ約8bの堤防を登り、ここから徒歩で川渡りをした。
料金は水が無くても1人3文を、出水時には水かさ1尺以上(8文)1尺5寸(12文)2尺以上(18文)2尺5寸以上(24文)3尺以上(32文)の定めで、旅人の川渡りを川人足が助勢していた。現在のトンネルは明治19年に開通、以来砂川渡りはなくなった。

天井川が決壊
 
  
 享和2年(1802)陰暦6月28・29両日の大雨で草津川堤防が決壊した。草津宿の「中山道口から京口迄倒家、流家三百軒」(木屋本陣文書)「流亡者無慮百、溺死四十余人」(田中貞昭稿『栗田志』巻之三、文政4年、深田義秀家蔵)を数えるかってない被害を受けた。さらに栗田志によると「享和2年6月は、上旬から快晴続きで農家は降雨を願っていた。28日から降り出したが夜に入ってもやまず、29日朝は大雨となり、宿場の人々は草津川の渡り場に集まり、堤の補強のため土俵を5尺も積んで溢水を防ごうとした。水は土俵の上を越した。人々は老人や婦女子を避難させ、水洩れや堤の崩れを懸命に防いだ。崩壊は意外な所から起こった。午後2時ごろ町より14、5町も上流の部田村堤と呼ばれる堤が長さ約100bにわたり、ずるずると崩れはじめたのである。この切り所から釜の底を一気に抜いた様に草津川の水は下流底地の草津宿場に流れ込み、夕方には3丁目から4丁目は二、3bの濁流下に沈んでしまった」とその様子を伝えている。

 また江戸後期の戯作家・滝沢馬琴が出水から5日後の7月3日、江戸から京都へ上る時に草津を通り、水害に出合っている。その際の状況を「壬戌覊旅漫録」(しんじゅっきりょまんろく)(享和2年7月3日)につぎのように記している。

 程なく石部に行きて聞くに草津駅洪水にて家流れ人死す、故に昨今往来ないという、依りて今日石部に泊まる、明日経路あることを聞き出し案内を雇うて石部を立つ、草津までの間、堤崩れ家流れて益々駭然(がいぜん)たり草津へ膳所より役人詰めゐて人を通さず、よりて近在へ水見舞に行く体にもてなし駅の入口より左へ切れて田の中を行くこと十間ばかり水嵩股を浸し長竿を杖とし一歩は高く一歩は低く互に声をかけ辛ふじて姥ヶ餅の前へ出たり、是よりは陸地なり問屋より表通りの家八九軒押流し裏通りは人家多く流れ4、50人溺死す死骸は積みて累々たり、これのみならず守山・彦根又大水家流れ人死したりといふ、予が荷持ちたる人足も底に取つきて10町ばかり流れたりしが知れる人の家の2階へ流れつき直に2階に這ひ上りて一命助かりしという。 

 草津川の水害に関しては、以上のことが市史に掲載されているが、宿帳など貴重な史料が流出してしまい、それ以前の宿の詳細な様子がうかがえないのが残念であると書かれている。

宿場本陣の経営難   
 幕府の財政難は、各藩大名にもおよび、特に水害を受けた草津宿は本陣はじめ各宿とも災害復旧の借金に苦しみ、経営は日に日に苦しくなっていった。このため休泊諸大名に助成を願ったり、田中九蔵本陣ではお定本陣としていた讃岐国(香川県)高松藩松平家に借金返済の困難を訴え、金50両、膳所藩へも金百両の借金を願い出た。

 材木商を営み比較的経営豊かだった田中七左衛門本陣でも借財整理のため仕法講を計画、親類、縁者たちに1口120匁(もんめ)で講金を掛けてもらい、集まったお金で借金を返済し、その後開催の講会によって徐々に掛け金を返済していくという計画で、膳所藩主からも120目掛け3口加入してもらっていた。このほか脇本陣、旅籠屋などは自由に旅客をとっていたが、明治3年(1870)10月24日、ただ一軒残っていた木屋本陣と脇本陣二軒の名目が廃止されて廃業、翌年1月には東海道の伝馬所、続いて8月1日限りで諸道の伝馬所が廃止され、宿場の機能は停止、旅籠屋だけが残されていた。
鉄道の開通で旅人を失う   
 明治22年7月の鉄道開通と同時に生まれた草津駅(現在地)の出現で、東海道屈指の草津宿も旅人を失い、旅籠宿も櫛の目が欠けるように廃業していった。東海道線草津駅は、はじめの計画では矢倉村辺につくるはずだったが「岡蒸気の火の粉で美田がつぶされる」と反対がおこり町から外れた現在地に置くことになったようだが、それが現在の草津市中心地になっていることは皮肉なことである。

参考図書:草津市史、宿と街道(草津市発行)、
       くさつこぼればなし(草津市教育委員会発行)
写真:天井川となっている草津川 
この真下がトンネルで旅人たちはここから徒歩で渡った。

写真左:本陣内奥の高座、天皇のお泊り所
写真右:本陣に休泊した諸大名の表札
「右東海道いせみち」「左中山道美のぢ」古風な火袋のついた道標(高さ4.45b)が草津市大路(おおじ)一丁目の草津川トンネルの堤防脇に建っている。この川は天井川で堤防の高さが約8bもあり、明治19年(1886)このトンネルが出来るまでは、中山道を通る旅人は、堤防の上まで登り、そこから徒歩で川を渡って守山−八幡−関ヶ原を経て江戸に向かった。

 右側の草津川堤防沿いの東海道を進むと石部−土山−関を越えて江戸へ。京都へは中山道とは反対の街道筋を通って大津を経て京都へ。またのんびり京都への旅を楽しみたいという旅人は、街道筋の矢倉から矢橋街道に入り、矢橋港から大丸子船(百石舟)に乗り込み、約2時間かけて大津の石場までの舟旅を満喫、ここから逢坂の関−山科−東山を経て終着富の京都・三条に着いた。
写真上: 草津宿の街道筋にただ一軒残る木屋本陣。 突き当たりが草津川トンネル。 本陣から約1.3qが宿場の街道筋  
(草津川より反対方向) 

写真右: 草津川トンネル右側にある  
「左:中山道美のぢ」 「右:東海道いせみち」の道標 

京都は江戸から数えて53次目の宿場だから草津は52次目。中山道では木曽路68次目の宿場だった。いずれにしても草津と京都は目と鼻の距離、王城に近く中山道と東海道の分岐点、それに伊勢道への曲がり角という要衝だけに草津宿を利用する旅人は天皇、大名、文人、墨客など色々な人が多かった。

草津の地名
 
 
 鎌倉末期(1275)時宗(じしゅう)の開祖・一遍の教化遍歴を描いた「一遍上人絵伝」の巻七に「一遍が東国巡歴ののち尾張、美濃を経て京都に向かう途中、草津において夜中、にわかに雷にあい、一遍の夢の中に伊勢大神宮や山王の神があらわれ、不信心のものどもに対し、山神たちがこれを罰したため、病気になったものが多くあることを告げた。はたして翌朝、一遍に従う時宗の徒の中で13人もの病人がいたことを記している」これが草津の地名が文献上で一番早く出現したといわれている。

家康が近世宿駅制度を起動  
 江戸時代より前の草津付近がどのようであったかは判らないが、草津市城は、古代の近江京あるいは平安京の頃から東海道と東山道(後の中山道)の分岐点という位置にあった。戦国時代に入って織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時代ごとに宿場的機能を高めて行き、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦で勝利を収め、政権を手中にした徳川家康は慶長六年(1601)続いて同七年に東海道と中山道を整備、寛永12年(1635)参勤交代の始まった年に、田中九蔵、田中七左衛門が本陣職を拝命、江戸時代を通じてこの二本陣が草津宿の中核となった。

 こうして草津宿は、宿を構成する街道、本陣、脇本陣、旅籠屋、問屋場、道標、高札場などから成り、元禄14年(1701)の「草津町明細帳」によれば、家数294軒、人工2048人。文化14年(1817)では家数432軒、人口2648人を数え、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると11町53間半(約1.3`)の往還をはさんで本陣2軒、脇本陣2軒をはじめ大小72軒の旅籠屋が軒を連ねていた。江戸までの距離は東海道で115里余り(449.6`)隣りの石部宿まで2里半17町54間(約11.9`)大津宿まで3里半6町(約14.3`)中山道守山宿までは1里半(約5.8`)矢橋まで1里8町(約4.5`)であった。
矢橋は東海道の宿場ではなく、草津宿に包括される大津・石場への渡し場として位置づけられ、継立の機能を有していた。

宿場の機能  
 
 宿場は山道、海道を問わず、交通の要衝に生まれるといわれるが草津はまさにその通り。その機能は、軍事的な征旅から一般的な道中に至るまで、多少にかかわらず宿泊と同時に貨物の運送が不可欠の条件であり、時には関所の役割も課せられていた。戦国時代のあと、徳川幕府の創立で戦は少なくなったが、それでも将軍上洛の供奉は行軍に代わるもので、寛永11年将軍家光の上洛の供奉は総勢30万7千人余に及んだ。その点例年の参勤交代などは、将軍に対する諸大名の誠意の示しどころで、一種の行軍であった。そのような関係から寛永末年には、草津を含む東海道の各宿に対して伝馬百頭を常置させるなど宿駅制度を完全なものにしていった。
 
 また宿では、道中奉行と宿の実際の管理に当たる膳所藩の二重の支配を受け、藩、奉行の名によって出される各種の触書は、順次宿送りで回送され宿役人が書き写した。また必要があれば海道、山道の分岐点となっている追分見付(道標のある所)に高札場を設け、毎日数枚の高札が掲げられ、この高札の管理は特に留意し、堤防の決壊の恐れがあるときは、約1`離れた立木神社まで運ぶことが義務づけられるなど最大の注意が払われていた。

本陣の顧客と経営 
 
 本陣は、宿場における代表だけに門構えで白洲、玄関を備え、書院造りで宿内では最も偉容を誇っていた。室町時代、二代将軍足利義詮が上洛の際、旅宿として使ったのが始まりで、寛永期(1624-44)の参勤交代から本陣の休泊は公家、勅使、院使、門跡、大名など高貴な人に限られ、本陣の家格は宿内においては高く、当主は帯刀を許され、宿役人や村役人などの要職を兼ね、宿場の運営にかかわっていた。

 本陣の経営面をみると、本陣は旅籠屋と異なり、休泊の料金に定めがなく、大名たちの下賜金によって経営が成り立っていた。そのため大名たちも藩財政が潤い余裕がある時期には、各家の誇りや見栄もあって下賜金は比較的に豊富であったが、幕末期になって藩財政が苦しくなると下賜金が減少することになった。しかし本陣では旅籠屋のように一般の旅人を休泊させることは禁じられていたため経営は次第に苦しくなっていった。しかし七左衛門本陣は、木屋本陣とも呼ばれ、副業に材木商を営んでいたので経営面ではまだ恵まれていたようだ。特に幕末期の騒然とした世情にあっては和宮降嫁や将軍家茂上洛などの大規模通行がしばしば行われることによって宿そのものへの負担の増大はもちろん本陣への影響も少なくなかった。

休泊した人達
 
 九蔵本陣の史料がなく、現存する木屋本陣に残る元禄期から明治期に至る180冊の「大福帳」によると、数多くの人々が休泊している。皇女和宮、将軍家持をはじめ、赤穂事件で有名な大石内蔵助や吉良上野介、浅野内匠頭、ドイツ人医師シーボルト、幕末に活躍した新撰組の土方歳三など歴史の表舞台へ登場してくる人々。また各藩大名の参勤交代や琉球使節、朝鮮人使節の行列、そして将軍への献上のための珍品や珍獣などさまざまな通行があった。また毎年1月には年頭使が江戸から京都へ、四月には例幣使が京都から日光東照宮へ、5月には「お茶壺道中」などの定例御用通行が年間、10件もあった。このほか文人、墨客の休泊も多く、旅籠屋は旅人の争奪戦を演ずることがあり相互に申し合わせ、掟書を作って宿内の綱紀粛正を図っていた。

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第13回  − 東海道草津宿 − METRO No.139