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今でも元伊勢、おいせとも呼ばれる佐久奈度神社。

正面の朱ぬりの建物が拝殿・後ろに本殿がある。
俵藤太秀郷が湖水に入ったと伝えられる瀬田の唐橋 東岸(右手前)
★佐久奈度の滝に白龍★ 
 建武の頃、一人の僧が断食して佐久奈度の滝で七日間の行をした。満願の日、一匹の白龍が滝の中から現れたかと思うと瀬田川を琵琶湖の方に向けてのぼり始めた。不思議に思った僧は川の西岸沿いにこれを追跡していったが、瀬田唐橋のところで姿が見えなくなった。

 太平記の記事とこの伝承を合わせて考えると、龍は瀬田の唐橋と佐久奈度の滝との間を往復していたことになる。ここに至ってわれわれは俵藤太伝説において、龍宮がどの地にあったのかをはっきり知ることができた。それならば日本人にとって龍宮とはどういうところなのか、そしてなぜ佐久奈度をめぐって、さらには秀郷流藤原氏をめぐって、しきりに伊勢とのつながりが言われるのであろうか。龍宮と伊勢とはつながりがあるのかどうか、そのことも考えてみたい。
佐久奈度神社裏から見た瀬田川、上流は琵琶湖、下流(左)は宇治川へ。中央の橋は鹿踏(ししとび)橋(その昔弘法大師が鹿の背にまたがってこの川を渡ったという)左側の山上に弘法大師が彫った聖観音をまつった立木観音がある。佐久奈度神社は往時、前の岩場の手前に建てられていた。
佐久奈度神社裏の瀬田川に見える白い波が“さくなだの滝”(往時は現在のような天ヶ瀬ダムもなく、川の水はもっと低く、白波のたっている所は落差が高く滝のように水が落ち込んでいた。最近でも水量の少ない日には白波がたっている。(先々代の宮司まではこの滝が見わたせた)
★地の底に吸い込まれる★
 ところで天ヶ瀬ダム(宇治市)が造られる以前は、佐久奈度をとりまく環境は現在とは全く違ったものだった。今は水没して無い旧社殿の裏手には滝があって、その名の如く「さくなだりに落ちたぎって」いた。そしてその滝つぼに近づくと地の底に吸い込まれるといわれていたと佐久奈度社の名誉宮司・坂田殷毅氏(故人)は証言する。

 この「地の底に吸い込まれる」という伝承はきわめて古く、そして有名なものであったらしい。「蜻蛉日記」のなかで少将道綱の母は佐久奈度について次のように書いている。「をのこどもの中には『これよりいと近かなり。いざ佐久奈谷見には出でむ』『口引きすごすと聞くぞ、からかなるや』などというを聞くにさて心にもあらず引かれいなばやと思う。」

 「佐久奈谷はここから近いから行ってみよう」というのに対して「谷の口からずるずる引き込まれると聞いているぞ、それがいやだね」と従者の男たちが話しているのを聞いて道綱の母は「自分の意志ではなく引かれて行きたい」と思うのである。

 すなわち今から千年以上も前から佐久奈度の滝つぼは地下の国に通じていると考えられていたのである。滝つぼが地下の国に通じているという考え方は、すなわち龍宮渕の思想であって、日本各地に見られるものである。

佐久奈度の滝つぼから入って行くと龍宮の楼門がある。それが龍門であった。従って小男に案内されて瀬田の唐橋から水底に入って五十余町行ったところにある楼門とはこの龍門のことに違いない。そしてそれを裏付ける決定的な決め手がある。それは次のような佐久奈度にまつわる伝説である。
佐久奈度神社に寄せられた神剣一振(右)と、猿田彦面一口(左)
 また社記よれば、現在社宝として保存されている神宝のうち、神剣一振、猿田彦面一口は村上天皇の天暦元年(947)に伊勢大神外宮弥宜・渡会(わたらい)氏から伝えられたものだといわれ、土地の人びとは、伊勢と佐久奈度は一体のものだという心意を持っている。
★秀郷は佐久奈度社の社殿を改築★ 
 前号で秀郷流藤原氏と伊勢とのかかわりについて述べたが、社伝によれば延長四年(926)9月、秀郷は自らの祈りと称して社殿を造営したと書かれている。延長四年という年は、秀郷が罪を得て流布された延喜16年(916)の10年後ということになる。

想像をたくましくするならば罪を許されての帰途、心機一転、一門の繁栄を祈っての造営であったのかも知れない。さらに神剣および猿田彦面が伊勢から伝えられたとする天暦元年は、将門討伐の天慶3年から7年後のことだった。
 
 佐久奈度社のある地は、秀郷が田原、龍門と共にその領地としたと伝える大石庄桜谷にある。この地理的位置は、秀郷と佐久奈度社との強いかかわりを示唆せずにはおかないし、秀郷流藤原氏の伊勢とのつながりも元伊勢といわれる佐久奈度社を媒体にするならば容易に説明のつくところである。
★佐久奈度社は元伊勢★ 
 事実「佐久奈度神社由緒」によると大嘗祭には大祓の神事を行うのが定式であったと書かれ、また往古、伊勢大神に参向する者は、貴賤となく必ず佐久奈度社に参ってお祓いを受けるのが常で、このため忌伊勢(おいせ)祓戸大神宮と称していた。現在でも佐久奈度社を「元伊勢」と呼ぶ言い習わしのなかにこの伝承は受けつがれている。

 さらに佐久奈度社の社記には、祭神の「天瀬織津比呼尊者天照大神荒魂内宮第一の摂神也」と書かれてあり、つづいて「往古謂 忌伊勢、今呼 大石也」と誌されていて伊勢とのつながりを示唆し、大石という地名も「忌伊勢」(おいせ)に発しているというのである。昔は大石を「おいせ」と呼んでいたらしいことは、近江輿地誌略の「大石を俗においせというは訓の転訛なり」の記事によってもうかがい知ることができる。
★龍宮の門は佐久奈度神社か★ 
 上の描写によると龍宮の門は瀬田の橋(唐橋のこと)から五十余町下ったところといえば、ほぼその距離にあるのは大石の佐久奈度神社である。

この社は社伝によると「天智天皇八年(667)に勅願により中臣朝臣金連(かねのむらじ)が、この地に神殿を造営し祓戸三社を祀ったことに始まり「延喜式神名帳」の名神大社に名を連ねている。

また「文徳実録」には仁寿元年6月(851)甲寅の詔をもって近江国散久難度神は名神の列に加わり、さらに「三代実録」には貞観元年(859)に從五位を授けられたと記されているなどから格式のある神社であったことがわかる。
第11回  −田原籐太秀郷と龍宮(その2)− 137号    
★宇治田原の祭に龍門の神輿が参加★ 
 小山、大石氏の大石・龍門との密接な関係は、田原藤太の支配地は田原郷だけでなく大石(龍門)の地まで含んでいたとする伝承が史実に基づいたものであることを示しているが、さらに「田原祭」と呼ばれるきわめて歴史の古い祭に際して、大石庄に属していた小田原、龍門の地からも神輿が参加していたという事実があった。

 田原祭りは宇治田原の郷土史家である山本十造氏によれば文献的には鎌倉時代に逆上るというが、伝承としては天慶三年(940)の将門討伐の直後に始まったといわれている。この田原藤太秀郷とのつながりを暗示する田原祭りに小田原、龍門の神輿が参加していたということは重要である。それは田原および小田原、龍門を含む大石の地が田原藤太にかかわるひとつの理念のなかに組み込まれていたということを意味しているからである。

 このように宇治田原、大石・龍門の地と秀郷流藤原氏との動かすことの出来ないかかわりを確認したうえで、秀郷が百足を退治した御礼に連れて行かれたとする龍宮は一体どこなのか。龍宮は単なるイマージネーション(空想)の世界に属するものなのか、それとも特定できる地があるのか。

 太平記巻十五「三井寺合戦 当時撞鐘付俵藤太事」に三井寺の鐘の由来譚として田原藤太の百足退治のことが書かれている。藤太秀郷は小男の案内で湖水のなかに入って行く。


「二人共に湖水の波を分けて水中に入ること五十余町あってひとつの楼門あり、
開いて内へ入るに、瑠璃(いさご)の砂厚く玉の甃(いしだたみ)あたたかにして
落花自ら繽紛(ひんぷん)たり……」