第34回
                             日野製薬の創始者 正野 玄三
  正野玄三は、江戸時代のはじめ、日野町の鈴鹿連峰の名山・綿向山々麓の野草から独特の家庭薬をつくり、病に苦しむ多くの人達を救うとともに、全国的な配置薬業の先駆者となって町の経済発展にもつくした漢方医であり、町医者でもあった。
 この町は、蒲生氏の城下町で、伊勢神宮御代参街道の宿場町としても知られ、人や馬の往来も激しい湖東地方の主要な町として栄えてきた。
ところが、四百余年前から地方の一豪族としてこの日野を支配してきた蒲生氏は、天正12年(1584)(小牧・長久手の戦の頃、氏郷の時代)に伊勢(三重県)松坂へ、そしてまた会津(福島県)若松城への城替えで、武士をはじめ町民の多くは、蒲生氏の長い間の恩恵をしたって松坂や会津へと移ってゆき、さしもの日野も急に火の消えたような淋しい町になってしまった。 それからの百余年、町の人達は「どうしたら昔の日野町のように栄えることが出来るだろうか。」と懸命に考えたが、これというよい思案もでなかった。そこで「町にいてはよい方法も浮かばない他国へ行けば開ける道もあるだろう」、と古くからあった土地の産物の「漆器」「日野椀」をはじめ、京呉服や近江麻などを天秤棒でかつぎ、馬の背に積んで、東は奥羽地方から西は九州の果てまで売りに出かけた。この商売を日野では「持ち下り」といった。
だが当時の交通は、自分の足に頼る以外になく、けわしい山坂道も、広い遠い野道もどこまでも歩くしかなかった。河はあっても橋はない。それは想像も絶する困難な旅であった。しかも利益の少ない商いではあったが、滋賀県では湖北の五個荘町をはじめ、近江八幡、八日市などからも若い人達が、近江商人として日本各地へ新しい商売のよりどころを求めて行脚が始まっていた。


 正野玄三誕生 
こんな頃の万治2年(1659)玄三は百姓源左衛門の三男として生まれ、幼名を万四郎といった。万四郎の出生は、あまり祝福されなかったが、二人の兄が若くして死んだために、父源左衛門は万四郎に、百姓をさせて家を継がせようとしたが、かれは、「わたしは百姓をしてこの日野で一生を終えたくない。広い世間に出て、自分の力をためしてみたい。それには商人になることだ」と、父を説きふせた。そして延宝4年(1676)万四郎17歳の春、ひとり越後(新潟県)にゆき、大屋新五兵衛の店に見習奉公として入り、初めて商売の道を習ったのである。関東でいう小僧であり関西でいうところの丁稚(でっち)奉公である。 丁稚奉公は、勤めに時間はなく、朝から晩まで働きどおしで、給料もほんのわずかばかりの苦しい勤めであったが、一人前の商人になろうとする万四郎には、なんの苦しみでもなかった。
主人の命ずるままに、かげひなたなく励み、3年・5五年と年月が過ぎた。奉公もようやく10年近くになり、やがて独り立ちもできようというやさき「父死す」との知らせが雪深い越後の万四郎のもとに届いた。突然の悲報による驚きとともに、今少しで達せられる年来の目的を前にして帰郷しなければならない万四郎の胸は、父を失った悲しみと志を断ち切られる無念さでいっぱい。だがひとりになった母を思うとき、かれはもういても立ってもいられず、心を残しながらも越後をあとに吹雪の北陸街道を故郷へ急いだ。
志なかばで故郷に帰った万四郎は、そのころ盛んになった漆器や茶を持って、東北の諸国に行商する持ち下りをして暮らしを立て、母に仕え、世間から「孝行者の万四郎」といわれていた。
万四郎の商売も順調に進み、嫁ももらっておだやかな日が続いた。そして幾年かの歳月がながれていったある日、母が病気に倒れた。なんの病気か原因がわからない。万四郎は、一日も早くなおるよう夜となく昼となく看病につとめ、あちこちの医者にみてもらったり、薬もかって飲ませたりしたが病気は少しもよくならない。ついに万四郎は「いなかではどうしようもない。一度京都へ行き、有名な医者に診てもらおう」と考え、故郷の家を閉め、母をつれて京都の名医、名古屋丹水に診療を乞うた。

 先生のいわれるとおりに、薬を飲み養生した母は、めきめきとよくなり、日ならずして元気な体を取り戻した。母はもとより、万四郎の丹水先生に対する感謝の気持ちはいいようもない。その感動の心の中で万四郎は考えた。
「病気は人間として避けられない大きな苦しみである。その病気をなおすことほど人のためになる仕事はないだろう。わたしもこんな仕事がしたい。医者になって、この喜びの恩を世の人にかえしたい。だがもう35歳にもなっている。今からでも医者になれるだろうか。いや迷わずにやはりこの商人の道に進もうか」とあれこれ思い迷うた。しかし一度思い立ったらなかなかあきらめきれない。「そうだわたしの家も先祖は医者だったと聞いている。その血がわたしにも流れているはずだ。この歳からでもやる気があればできないことはない。」と万四郎は決心を固めて再び名古屋丹水の門をたたいた。
江戸時代中期の元文(1728)寛保(1742)の頃には、日野大窪・村井だけで製薬・売薬業者が百十軒も軒を連ね、この頃、正野玄三が建てた建物が現在残っており、「萬病感応丸」と書いた大きな看板がかかっている。間口の左半分は玄三先生の自宅で、右半分を製薬工場や販売所、地下には薬種貯蔵庫や、薬種蔵が棟を連ね、昔の家内工業的な製薬の面影を今に伝えている。
いわば、この細長い通り筋に薬屋が軒を連ね、秋口近くになると、煎じ薬として用いられる風邪薬の香りが町内にただよっていたという。
 万四郎、名古屋丹水の弟子となる
「先生、わたしを弟子入りさせて下さい。どのような修行もいたしますから・・・」

「その歳になっては」となかなか許しがでない。が、万四郎の決意は固かった。丹水はついにその熱意に負け、ようやくにして弟子入りがかなえられた。万四郎は寸刻をおしんで勉学に励んだ。

 医者になるには、まず漢字から勉強しなければならない。漢籍の勉強のため万四郎は伊藤仁斎の門に入った。小さい時から持ち下りという商いの道で苦労し鍛えられた万四郎はどのような苦しいことも、ものともしなかった。丹水先生も「これは見どころのある人間だ。」と手をとって教えられたため、かれの学問、技術は短年月の間に驚くばかりの進歩をとげた。

 元禄11年(1698)丹水先生の字(あざな)である玄医の一字をもらって名を玄三白考と改め、先生の代診もできるようになった。
しかし丹水は漢方医学の奥義までは教えようとしなかった。ある日玄三は、農夫が水田を一度乾(ほ)した後に、再び十分水をそそぎ入れるのをみて「そうだ、補陽滋陰の理とは、このことだ」とさとったという。補陽とは陽を補うこと、つまり健康な体をより強くすることであり、滋陰とは陰を滋(そだ)てること、すなわち弱い体を強くするという意味である。
、恩師の秘法を会得して患者を治療したから、その効果はいちじるしく、玄三の名声は多いにあがった。門前は診療をうける人でいっぱいになった。 
恩師丹水亡きあと、玄三は師のあとつぎとして宮中にも出入りするようになり、宝永2年(1705)正大位下法橋(ほうきょう)という医者として名誉ある位をもらった。後には「法眼」(ほうげん)という位に上がって鳩杖(きゅうじょう)までも賜ったが、年をとってからは故郷日野に帰り、余生を近隣の人たちの施療にあたっていた。
玄三はつくづく考えた。若いころ、東北地方へ行商に行ったとき、山奥や海辺の小さな村で医者もなく薬も少なく、病気に悩み苦しんで死んでいく人のあったこと、また流行病で一村全滅という悲惨なありさまをみてきたことなどを思いうかべた。中年から医者を志して、ここまできたが、自分が手をとって診る患者の数には限りがある。このような人たちを救うことが医者としての道ではないだろうか。
それには、よい薬を作り、山村僻地まで気やすく手に入れられるようにしたならばこの人達も救えるであろう」
 玄三は苦心の末、元禄14年(1701)(浅野長矩、江戸城殿中に吉良義央を傷つく)神農感応丸、後に萬病感応丸という丸薬を考え出した。これが日野売薬のはじめである。
  この薬が作られると、日野の商人は、行商するのに量の大きな漆器、日野椀、呉服類などを持って行くよりも、持ち運びも小さく、高価でしかもよく売れる玄三処方の神農感応丸のほうが利益も多いと薬を商売するものがふえてきた。薬のききめがよく、たちまち全国に広がって、日野商人で薬を売らないものはないほどになった。持ち下り商いも売薬が中心となり、日野の商人にようやく活気がよみがえり、日野の産業は漆器から薬の町へと移り変わっていった。
 玄三法眼は最後まで仁術をつくし、庶民にその徳をしたわれながら享保18年(1733)6月29日、75歳で永眠した。
萬病感応丸は、今もなお日野製薬の中心となっている。
                                                            (曽我 一夫記)

参考資料 : 郷土に輝くひとびと (滋賀県青少年育成県民会議発行)、
         観光だより日野の郷 (日野観光協会発行)
         日野売薬、その歴史と風土 (近江日野商人館館長 正野雄三編)

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