第33回
              幕末の大政治家

         彦根城主 井伊 直弼(下)
 開発地を神奈川から横浜へ
 その後、日本は、オランダ、ロシアなど多くの国々とも通商条約を結び、さていよいよその開港地を決める段階に入った。直弼は、条約文書には「神奈川」と書いていたが、急に「横浜村に変更したい」と主張した。直弼が変更を思いついたのは、当時の横浜は、広い港湾の一角に、約百戸ばかりの漁村が建ち並ぶ寒村に過ぎず、この事業を機に、横浜村を貿易港に発展させたいと思いたったからだといわれている。とにかく港湾工事建設を議決し、波止場を構築する中で、都市計画を進め、直弼は、外人の好む住宅や公園を造成、娯楽設備まで計画していたのでさすがの外国人も目を見張った。工事が進み、建て物が増え、外国船の出入りが多くなるにつれて神奈川から横浜に移り住む外国人が増え、みるみる世界の貿易港を思わせる港へと変化していった。この大きな発展への基礎作りをしたのは、全く直弼の識見と度胸であった。
 桜田門外の変
勅許を待たずに調印した安政仮条約や、反対派を押し切っての将軍家茂(いえもち)の擁立、また尊王攘夷論者に対して行なった過酷な安政の大獄など一連の処置は、尊王攘夷論者を
始めとする反対派の大老井伊直弼に対する反感を一層かき立てた。
春というのに、その年はまれにみる大雪となった。諸大名登城の太鼓を合図に、直弼のカゴも外桜田の邸を出た。雪の降りしきる中を、60人の供たちをそろえてカゴは桜田門に近づいた。そのとき、たすき十字の連中が直弼の行列に斬り込んだ。さしもの彦根武士も、不意を打たれてつぎつぎと倒れた。ついにカゴに近づいた暴徒の幾人かが直弼を刺した。春の雪を血に染めた桜田門外の変は、わずかの間の出来事であったが、波乱の多かった幕末の英雄、井伊直弼の生涯は、はかなくもここで閉じた。ときに万延元年(1860)3月3日の朝のことである。→直弼46歳、まことにはかない一期であった。

直弼の供の者は、雪の日ではあったが、服装を正していて雨合羽に笠、そのうえ礼儀正しく刀は袋におさめていた。不意を打たれて自由な動きができず、残念なことであっただろう。暴徒は十八人。主謀者の有村治左衛門だけが薩摩浪人で、あとは水戸藩の者であった。
人を愛し、静寂を好む茶人・直弼が、ひとたび国家存亡に身を置くと、生命にかえて国を愛し、事に当たっては思慮深く、その信じる道を断固として進んだ。まさに愛国の勇者ともいえよう。

 井伊大老の死
 250年にわたり、日本を支配していた徳川幕府が、崩壊の一歩を踏み出したのは、アメリカをはじめ、海外列強の東洋進出と、日本への強力な干渉が直接の原因となった。いわゆる「鎖国の夢」やぶれて、国を、港をひらかざるを得なかった幕府は、その衰弱した政治力に乗じて結集しつつあった有力大名の政治介入をこばむわけにはゆかなくなった。
 大老、井伊直弼は、幕府権力の最後のシンボルであり、桜田門外において水戸浪士を主力とする一団に暗殺された日から、徳川幕府の栄光は消え去ったともいえる。もともと、井伊直弼が幕府最高位の大老職に任いた裏面には、将軍継嗣(けいし)についての有力大名たちの争闘があり、病弱で、子もなく役にも立たない十三代将軍・家定のあとにすえる将軍には、「一橋慶喜公」(ひとつばしよしのぶ)を迎えよと主張する阿部正広(あべまさひろ)=備前・福山藩主=松平慶永徳川斉昭(水戸藩主)もこれに属する。
 これに対して「紀州家から将軍家にもっとも血すじの近い慶福公(和歌山城主)をむかえるべきだ」と主張するのが井伊直弼をはじめ、紀州派のいわば保守派ということになる。この両派の政争は、慶喜派の阿部正弘、島津藩播主の急死によって、にわかに「紀州派」の勝利へとかたむいていった。
こうして井伊直弼の大老就任は
 ・ 将軍継嗣を中心とする政争の手段
 ・ 切迫する外国問題の解決策
と大まかにいって、この二点の要望をになってうまれたものといえよう。
 この事件に関して直弼は水戸の徳川家に対しては、隠居中の斉昭と現藩主の慶篤を押し込め、斉昭の第七子である一橋慶喜を隠居させてしまった。松平慶永、山内容堂(土佐藩主)も同様の処罰をしたのである。それに加えて熱烈な尊王攘夷派の志士・吉田松陰(長州藩士)その他を死罰にした「安政の大獄」によって弾圧はその頂点に達した。 
 この反動が井伊暗殺となって現れた。
井伊家では、水戸浪士たちが江戸へ潜入していることもさぐり出しており、暗殺に対する注意もおこたらなかったのだが、まさか藩邸と目と鼻先の江戸城・桜田門前で襲撃されるとは思ってもいなかったのだろう。
 直弼襲撃の早朝、井伊屋敷に、浪士襲撃を密告した手紙が投げ込まれたという。それによると、大老の行列へ襲いかかった浪士は18名。
これに対し大老の行列は60名であったが、抜刀して闘える士分格のものは30名ほど。そしてこのうち最後まで大老のカゴを護って奮戦したのは8名に過ぎなかった。
まったく無傷のものが8名もいて、このものたちは、浪士襲撃とみるや「一大事にござる」と叫びつつ、藩邸へ駆けつけて注進したのはよかったが、どこかへ隠れたり逃げたりして事件後、どこからともなく現れ同僚の死体の整理に当たったりした。
 譜代大名のうちでも、その威名を天下に知られたほどの彦根三十万石の大藩・井伊家自体が、これほどまでにおとろえていたことを伺わせる事実であった。
直弼の人となり彦根藩主直弼は、十四男で、32歳になってから彦根三十五万石をついだ。まず運の強い人といえる。三百俵の部屋住の直弼は、17歳の時、父が没すると、城中から出て暮らしている。藩内の一般的な立身を捨てたわけだが、そういうことが出来るほど個性の強い青年だった。多分15年間の修行生活は、孤独なものであって、後年他人を容易に信用しない、強い気性もその間に培われたものであろう。当時、彼の国学の師であった長野主膳は、彼が心を許した物であり、大老就任後も彼の腹臣として働き、政策などにも主膳の意見があらわれているといわれ、一度心を許した相手には、とことんまでつきあうといったところがあったという。
                                                            (曽我 一夫記)
参考図書:
▽郷土に輝くひとびと               編集   滋賀県厚生部青少年対策室
                             発行   滋賀県  滋賀県青少年育成県民会議

▽日本歴史シリーズ  開国と攘夷      発行所 株式会社世界文化社
                             編集発行人 鈴木 勤

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