-縄文・三内丸山遺跡を訪ねて その2- 
                                             第25回

 三内丸山遺跡では紀元前約6000年前から、少なくとも1500年以上継続した文化層が整然と堆積している。縄文前期はほかの遺跡と大して差が見られないが、前期終わりから中期はじめにかけて規模が徐々に広がり、それまで遺跡の北側に限られていた集落が、最盛期の中期半ばには南側まで拡大した。その後再び集落は小さくなり、北側の隅に僅かに居住域を構えるだけとなる。このような集落全体の移り変わりがわかる遺跡の例は希である。遺跡の各地層から採取された測定資料を用いて、放射性炭素の年代測定及び暦年補正を行った結果、集落の開始は約5700年前で、終末は約3800年前であることがわかった。また出土する土器は、一土器形式の継続期間が場所により均一でないことがわかり、集落論の展開に土器編年を用いることは有効でないことが指摘された。

 縄文時代は狩猟採集文化、すなわち「貧しくて脆弱な」というイメージであったのが、遺跡調査に基づく学際的研究の結果、三内丸山では自然環境の影響を受けない、都市化された生活を営んでいたのではないかと考えられるに至った。比較文明学の梅棹忠夫顧問(国立民族学博物館)は、三内丸山は吉野ヶ里遺跡(佐賀県)から出雲大社(島根県)へとつながる日本文明の発祥の地だと話している。

 まず道路だが、縄文時代の道といえば、けもの道程度であろうと考えられていたところに、この遺跡内で東西420m以上、南北370m以上伸びる道路が発掘された。この中軸道路の跡は幅約12~15mと広く、その中央は30cmほど地面を掘り込んでおり、場所によっては粘土を貼り付けたところも見られる。東西に伸びる道は遺跡の範囲のそと、おそらく当時の集落の入口のあった海(東)側へ向かい、標高約7mの低地まで延々と伸びていた。この道路跡は集落が最も繁栄した時代のもので、このような規模の大きなものが検出されたのはこれまでに例がない。

 三内丸山は円筒土器文化圏に属する。この土器の出現・普及は食生活に多彩な変化をもたらした。どんぐりや栃の実を食べるには長時間煮沸してあく抜きをしなければならない。資源を栽培によって確保した澱粉系食品の加熱調理が主食として容易となり、更に重要なことは海水からの製塩が可能になったことである。それに肉類、魚類、貝類の交易が加わって、この様な大規模定住型集落への食料供給が考えられる以上に円滑に行われていたと推測できる。例えば、出土した魚の骨を分析した結果、50種以上の魚骨が見つかったが、ブリとサバは頭骨が見当たらないことから、他から交易の目的で持ち込まれていたとみられている。(写真1 円筒土器)

◆写真1 円筒土器
  遺跡周辺の花粉分析や出土木材の分析から当時の植生の復元も試みられている。それによると、人為的生態系あるいは縄文里山とも呼べるような、クリを中心とする植生が広がり、クリやクルミなどの栽培を主とした縄文人の自然への積極的な関わり方が明らかになった。ヒョウタン、ゴボウ、エゴマ、マメなども栽培されており、ニワトコ、ヤマグワ、サルナシ、ヤマブドウなどの種子も大量に出土している。遺物の漆塗りの土器・漆器に関して、三内丸山のウルシの種子を遺伝子分析した結果、使用されたウルシは日本固有のものであり、ウルシ技術の起源が中国ではなく、日本起源である可能性が強まった。

 三内丸山のシンボル、6本柱の大型建物については、縄文人の知的水準を推定できる重要な発見があった。6本柱の柱穴は正方形を2つ繋いだ長方形であるが、この正方形の一辺は4.2mである。富山県埋蔵文化財センターの藤田富士夫前所長は富山県の不動堂遺跡などの大型竪穴住居跡の調査結果と、三内丸山の計測結果を総合して、縄文人は35cmを単位(縄文尺)とする物差しを使っていることを立証した。6本柱正方形の一辺である4.2mは35cm(縄文1尺)の12倍である。古代オリエントでも用いられた12進法である。12の利用はさらに、ピタゴラス三角形の最も素朴な形が、辺長3、4、5で、その和が12であることにつながる。縄に1尺、2尺と目印を付け、12尺で切って、辺長3、4、5尺の三角形を作れば各角が30度、60度、90度の三角形ができる。三内丸山の6本柱建設に際しては、縄文人にとって直角を出す技術は必須だと考えられるので、そのためにこの比が使用されたのであろうと推測される。(図1と写真2)
◆写真2 六本柱
 
◆図1 六本柱底面の寸法










  
 この建物が何に使われたのかは最も興味があることであるが、確からしいのは「理科で歴史を読み直す」に提唱されている縄文天文台説である。この6本柱建物は、長辺が夏至の日の出の方向を向いており、古代人の太陽信仰に関係があるようだ。この3階の最上階を覆って暗室とし、最上階の東側壁中央に直径1~2cmの穴をあけると、天体観測・祈祷室の完成である。夜明けの太陽光は24縄文尺はなれた西側の側壁上に直径約7cmのはっきりとした太陽像を映し出す。これはピンホールカメラの原理による像である。建物は日の出の方向を向いているので、夏至の日には西壁のほぼ中央に像を作るが、夏至の後は太陽を背にすると右側にずれる。1週間もすればそのずれは4cmくらいとなり、滑らかに削った板を用いて測定すれば、夏至の日を決定したりできるし、数年間観測すれば1年が365日と4分の1というところまで計算できる。板上に結んだ太陽像は、ちょうど神社における鏡の御神体と同様の輝く円形であり、日本人の原始宗教感にぴったりとくる。関東にも季節の節目に当たる春分、夏至、秋分、冬至の日の日の出、日没の方向を示す遺跡があり、縄文人が天体観測を行って四季を知っていたことは確かである。

 集落規模が大型化し土地の利用も整然となる縄文中期初頭から、各地との交流・交易により持ち込まれた遺物が顕著になる。出土黒曜石の産地を同定したところ北海道、霧ヶ峰、佐渡、月山、男鹿と多彩であるに反し、出土するヒスイはすべて糸魚川産であった。縄文人は船を操り、日本海を中心にして交易・交流のネットワークを形成していた。内反石刀、玦状耳飾り、三足土器、玉斧など縄文遺物と大陸の先史時代の遺物が類似していることから、北回りの大陸との文化の交流、また日本海の海の道についても調査研究が進められており、縄文文化は決して孤立的、かつ日本だけのものではないと考えられつつある。


文献 1)三内丸山遺跡発掘リポート  岡田康博 (三内丸山遺跡案内パンフレット)
      2)「理科」で歴史を読みなおす  伊達宗幸 ちくま新書(2010)
(岡野 実)
   


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