-縄文・三内丸山遺跡を訪ねて その1- 
                                             第24回
 縄文の黄金時代は中期の紀元前5千〜4千年前であった。縄文人は早期から東日本の人口が大で、前期、中期と進むに従いさらに顕著になる。縄文早期、日本の総人口は2万人ばかりであったが、それが約4千年前の中期には26万人にまで増加している。中期での中心は関東から中部山岳地帯で、八ヶ岳山麓の繁栄が有名であり、北方で三内丸山遺跡の大集落があったのもこの時期である。人口の96%が東日本に集中していた。試算によれば、この時代の人口密度は1キロ四方に約1人で、狩猟採集民としては非常に高い密度であるという。東北地方には縄文遺跡が多く残されているが、特に青森県は是川中居遺跡、小牧野遺跡、三内丸山遺跡、今津遺跡、石神遺跡および亀ヶ岡遺跡、また県内に点在する貝塚を含めて縄文文化の宝庫である。

 三内丸山遺跡は縄文前期から中期の大集落跡である。1992年に青森県埋蔵文化財センターが新県営野球場建設のため、この場所の緊急調査を開始、巨大遺跡が徐々に威容を現したため、球場建設の中止を決定、1995年から国史跡指定を目指す範囲確認調査が行われた。1997年に対象面積約24万3千uが国史跡に指定され、2000年には縄文遺跡としては3番目の国特別史跡に指定された。その後も青森県教育委員会により、集落の全体像と当時の生活環境を解明するための、発掘調査が毎年継続して行われるとともに、調査によって得られた資料の整理や分析が進められている。

 晩春の1日を選んで、思い切ってその三内丸山遺跡を訪れてみた。青森まで東北新幹線が開通したことで、新幹線利用者の三内丸山遺跡へのアクセスは非常に便利になった。真新しい新青森駅から、タクシーまたはシャトルバス「ねぶたん」号で10分もかからない。遺跡の入口広場から、縄文時遊館に入ると、エントランスホールに案内のボランティアが待機している。ベテランに見える案内人が世話している小人数のグループを選んで入り、さて見学スタートである。ここでは、縄文人の生活や環境が体感できる縄文ギャラリー、土偶・勾玉作りや火起こしなど縄文の暮らしの体験工房などがあるが、それらはパスして、遺跡に通ずる時遊トンネルをくぐり抜けると、中心道路にでる。

 この道路は遺構をもとに8.4mの幅で復元されており、道の左側ではストーンサークルが多数連なって見つかっている。左に曲がると竪穴住居群跡がある。縄文中期の家は地面を掘り込んで床を作り、床の中央に炉を設けている。遺跡全体では550棟以上の住居が調査されており、床の形や家の構造は時代によって変化があるが、ここでは建物の屋根を色々なパターンの形にして復元している。(写真1 竪穴式住居)

●写真1 竪穴式住居
 

●写真2 掘立柱建物










 住居跡を北へ抜けると東西に通ずる広い道路、通称墓の道である。東に420m続く道路を挟んで、同じ方向を向いた大人の墓が向かいあって配置されている。墓は地面を楕円形や小判型に掘った土坑墓であり、ところどころにストーンサークルが存在する。約220基の墓が調査されており、中にはヒスイ製ペンダントが出土した例もある。

 道を戻って、食料などを貯蔵した倉庫として使われたと推定されている、掘立柱建物群の横を通り過ぎると、北側に北盛土がある。竪穴や柱穴を掘った残土、排土や灰、土器や石器などの生活廃棄物を捨て、それが何度も繰り返されて、小山のように周囲から盛り上がった場所である。最初はゴミ捨て場であったが、小高い場所になってから後は、「まつり」の場所として使われたらしく、土偶、ミニアチュア土器、ヒスイ製の玉やその他の装身具など生活用具とは異なるものが出土している。盛土の地面を縦にカットして覆いをかけた見学用の施設で、カット面の所々に存在する遺物を観察できるようになっており、ここがその宝庫であることがよくわかる。この場所の東側から北に広がる谷もゴミ捨て場として使われており、水分が多く空気から遮られている泥炭層に当時の生活を解明する
のに重要な遺物、土器、石器の他に、通常では残らない木製品や漆器、動物の骨、魚の骨、ウロコ、植物の種子,木の実、寄生虫卵などが良好な形で見出されている。
(写真2〜4 掘立柱建物・北盛土・泥炭層)
●写真3 北盛土(縄文時代中期)
 
●写真4 泥炭層(縄文時代前期)










 
●写真5 巨大六本柱と大型竪穴住居
 
●写真6 大型竪穴住居の内部









 
 子供の墓(埋設土器)を見た後、隣の大型掘立建物跡の覆屋で直径2mの柱穴と、その中に残った直径約1mのクリの柱の遺物を見て外に出ると、すぐ前に三内丸山遺跡のシンボル、六本柱の復元大型掘立柱建物が聳えている。その南側には長さ32m、幅9.8mの復元大型竪穴住居がある。この建物については、共同作業場、集会所として使用した、あるいは冬期間の共同家屋であったなどの諸説がある。シンボルの太い六本柱の建物には誰しも圧倒され、感動の声を上げているが、それにも増してその横の大きな公共の建物に感心すべきであり、文明開化の明治時代のような感じで、正しく太古の縄文ドーム・スポーツ施設あるいはコンサートホールであったような経済的余裕と住民の幸福が想像できる。
(写真5,6 巨大六本柱と大型竪穴住居・大型竪穴住居の内部)
(岡野 実)
   


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