- 弥生とはどのような時代か?- 第4回
 弥生時代については前回で述べたように開始期の遡及に伴う歴史像の解明が始められているが、当然ながらその詳細は霧の中にあって曖昧模糊としている。しかし、曖昧だからこそ古代史の門外漢がいろいろと想像し論じて遊ぶことが出来る余地があると思う。

さて、炭素14年代測定法で、弥生開始期が、前5〜4世紀から前1000年ごろへとおよそ500年遡及したことに伴う弥生各期の年代幅と土器編年との対比について、国立歴史民俗博物館の研究チームは次のように提案している。
時代区分   西 暦 土器(九州北部出土)
弥生早期 紀元前
1,000〜800 年
山の寺、夜臼I、
夜臼 IIa 式
弥生前期 紀元前
800〜400 年
夜臼 Ib・板付IIa 式共
伴期、板付Ib 式、板付IIa、
板付 IIb、板付IIc
弥生中期 紀元前
400〜0 年
城の越、須玖I、
須玖 II 式
弥生後期 紀 元
0 年〜250 年
 
このように弥生時代は1,250年間となった。弥生時代中期後半の甕棺墓からは中国前漢の鏡が出土し、また後期の甕棺墓からは後漢の鏡が出土する。
この鏡の製作年代から弥生中期後半は紀元前1世紀に、後期は紀元1世紀に定点があってこの年代は変わらず、弥生開始の遡及により動いたのは弥生時代中期中葉以前についてである。

 弥生時代を特徴づけるものは、第一に水田稲作が組織的に始まったこと、二つ目にそれに伴い新しい道具、クワやスキといった木製の農具、石包丁(稲穂を摘み取る石器)や農具を作る道具として磨製石斧、磨製の武器類など各種石器の出現、そして金属器もこの時期に現われる。この他、環濠集落という新しい集落形態が入り、支石墓という墓制上新たな葬送形態が始まった。

弥生早期に入ってきたこうした新要素は、400〜500年かけて弥生前期末頃には列島内に定着していったと考えられる。
縄文後期から弥生中期までの遺跡の調査により、北九州(福岡・佐賀・長崎)では弥生早期の遺跡すべてで大陸系磨製石器がセットで出土することから、稲作の受容がこの地域ではスムースにいき、順調に定着したとみなされている。ところが水田稲作を受容したものの、草創期にはなかなか広がらず、東へ畿内までリレー式に伝播するのに350年ほどもかかっている。

 そして水田稲作による第二の画期は弥生前期末である。北部九州では集落の数が増えるとともに、その立地も拡散し、墓には首長墓が出現し、水田の検出もこの時期以降顕著となる。モノでいうと、細形銅剣、銅戈、銅矛といった青銅器や朝鮮系無紋土器などが認められるようになり、青銅器の生産もほどなく開始された。この時期に、新たな文化を携えた渡来人がやって来て、農耕祭祀も入ってきたのではないかと想定される弥生的な祭祀遺物も出土している。

 水田稲作は灌漑設備とセットとなってシステム化され、この時期以降には水田稲作を中心とした生産経済に入ったと考えられる。
その生産力を高めるための手段の一つとして農耕祭祀があり、祭りを執行する人物が首長であり、そこに権限が集中して社会階層が生じた。即物的には、朝鮮半島製もしくは朝鮮半島起源の銅剣、銅戈、銅矛あるいは装身具など
「もの」をたくさん副葬する「首長墓」と、なにも副葬しない民衆の墓の差が顕在化したのである。

 このような特定の人間の死を特別に扱って、お墓を作ることは古墳時代の終わり、7世紀半くらいまで続くが、これはなぜか?
一つのまとまりをもった社会の政治的リーダーの死が集団の死とイメージ的に重なる時期が出てきて、その死を放置すると、首長に共同体再生産の根幹をあずけている集団、それがイコール死になると考えられたから特別な扱いをしたと見ることが出来る。

つまり、水田稲作以降のある時期に共同体再生産の根幹を一人の人間に担わせるような時代が起こったというのが一つの説明である。
弥生時代の前期後半にそういう首長墓が出て、そこに副葬されたのは武器類であり、武器は権力・強制力の表現である。武器の副葬は北部九州から徐々に地域的にひろがり、古墳時代の最後まで残っている。

 弥生時代最初の500年間の変化は緩やかであったけれども、その後は一気に変わりだした。その最初が前述した前期末の政治的社会の形成。二つ目は紀元前1世紀中頃からの前漢王朝との接触による首長層の意識の改変、そして次のピークが2世紀後半ぐらいの王墓の誕生である。

地域のまとまりとかが次々に変わり、政治的社会構成の展開が早まって、3世紀半ばの前方後円墳の成立による日本列島全体の政治的統合にいたる。これが、水田耕作が始まってからのプロセスの一つの帰結であった。
 日本に触れた最初の文献は「漢書」地理志・燕地の条で、倭人は百余国に分かれ、一部の国が前漢の楽浪郡に、毎年、時を定めて朝貢に来たということが書かかれている。中国の正史のうち、倭(倭人・倭国)の伝を記載するものは数多い。

 中国王朝の時代順と正史の成立とはかならずしも一致していないが、その史料価値から取捨して分類すると(1)三国志・後漢書、(2)宋書・南斉書、(3)隋書・普書・梁書の3グループとなる。
その内容は同グループでは、おたがいに密接な関係を持っており、さらに隋書は宋書・南斉書をうけつぎ、それに新資料をくわえたものである。
このうち、弥生時代を記述しているのは、第1グループの三国志と後漢書であり、宋書になると古墳時代の倭の五王(420〜470年代)が登場する。

 さて、西暦紀元57年には、倭人の使者が後漢の都であった洛陽まで朝貢したことが、「後漢書」倭伝に出ている。「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す」とあり、これに対して、光武帝が印綬を授けたことが記されている。建武中元二年は後漢を樹てた光武帝治世の最後の年で、印綬を与えたことは、「後漢書」光武帝本紀の中元二年の条にも見える。福岡県志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印がそれにあたるらしいと見られている。

 次いで「三国志」の「魏志」東夷伝の弁辰の条に、この頃、倭が朝鮮の弁韓、辰韓から鉄を盛んに輸入していたことが書かれている。「後漢書」倭伝には、「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、暦年主無し」とあり、後漢の桓帝、霊帝の時代、140年代から180年代の約40年間に倭国に大乱があったことを伝えている。

そして、「魏志」倭人伝も「倭国乱れ、相攻伐すること暦年」と伝え、そのあと卑弥呼が擁立されて王となったことや、卑弥呼は「鬼道に事え、能く衆を惑わす」などと書かれていることは周知のことである。多年に亘り議論されている邪馬台国の所在についはここでは触れないことにする。

 魏志に記述された倭との使者の往来は次のとおりである。明帝の景所2年(238年)6月、倭の卑弥呼が太夫難升米らを魏に遣わす、12月、明帝が親魏倭王卑弥呼に詔を下す。
正始元年(斉王芳・240年)魏の太守弓遵が使者を遣わし、証書・印綬を奉じて倭国に行く。

倭王は使を送って上表文をたてまつり、詔恩を答謝する。その4年(243年)倭王が太夫伊声耆・掖邪狗らを魏に遣わす、掖邪狗らが率善中郎將の印綬を受ける。
同6年(245年)詔して倭の難升米に黄幢(きいろのはた)を賜う。

同8年(247年)倭王卑弥呼が倭戴斯烏越(須佐伊蘇志大兄か?)らを帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦状況を説明した。塞曹掾史張政らを遣わし、証書・黄幢を難升米に賜い、檄をつくってこれを告諭した。

 「卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。直径百余歩、殉死するものは奴婢百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。おたがいに誅殺しあい、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女壱与(台与か)という年十三のものを立てて王とすると、国中がついに平定した。張政らは檄をもって壱与を告諭した。

壱与は倭の太夫率善中郎將掖邪狗ら20人を遣わし、政らの還るのを送らせるとともに、生口30人を献上し、白玉、青大勾珠、異文雑錦を貢した。」と倭人伝は述べている。

 弥生時代の社会について、その頃の日本人が記した記録は何もない。そこで中国の史書と、考古学の成果を頼りに、3世紀中頃以前の日本を探るべく、これまで多くの研究が行われてきている。
ところが日本には幸いにして、この時代の人々が抱いた思想や文化を、この時代の人々自身の言葉で語ったものを知る上での宝庫ともいうべき資料の山がある。

戦後の日本では歴史資料として扱うことを忌避されてきた、「記・紀」などの古文献に収載された神話・伝説がそれである。「記・紀」の原資料の文字化された7世紀の記録のなかに、それ以前から伝えられてきた神話・伝説が、いくらか形を変えながらも豊富に盛り込まれている。

当然そのなかに弥生時代にその骨格が形づくられたとみられる神話がある。このような、大量の神話を取り込んだ「記・紀」の資料は、広くアジアの歴史にとっても貴重な資料であると考えられ、新しく評価することが始まっている。

 民族学や比較神話学が明らかにしてきたように、7世紀に記録化された日本神話(記紀神話)のなかのあるものと、19〜20世紀に欧米の研究者によって採集されたインドネシアや東南アジアの神話とが、寸分違わぬといってよいほど似ていることがある。この事実は、神話がいかに変りなく伝えられているかを示すもので、資料として神話の価値が高いことを物語っている。
(岡野 実)
文献 1)弥生時代千年の問い−古代観の大転換 広瀬和雄他 ゆまに書房(2003)
    2)中国正史日本伝(1)魏史倭人伝他三篇 石原道博編 岩波文庫(1985)


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