自分の外にあるものは、はっきりと見える。そして、その対象物に対する評価や批判を行うことは容易い。目に見えるものについて、自分の尺度で評価すればいいからである。 しかし・・・・もっと大きな視野から客観的にみてみると、その評価は、あくまでもその人の尺度であり、その人の固定観念というフィルターを通した評価にすぎない。その人は、その視点からみた評価を絶対的なものと信じており、それ以外の別の次元が存在するということに気付かないことが多い。そういう別の見方、次元があることを、知ろうともしない・・通常の生活をする上では、特に問題にもならないのだが・・。 しかし・・・・そのことが、「学び」を阻害する要因のひとつになっていることを忘れてはいけない。幼い子供は無邪気である。素直に多くのことを受け入れ、どのようにでも変わりうる柔軟性というものを持っている。年を取るにつれ、人というものは、無意識に、ある種の凝り固まった考えに縛られるようになってゆく。それは、開き直りともいえるが、ある意味では自己防衛のための「殻」に閉じこもろうとする意識の方向性なのかも知れない。 この「殻」に意識を向けてみよう。誰にでも多かれ少なかれ、自分では気付かない「殻」というものがある。自分が置かれた環境に適応するため、知らず知らず無意識に自分が作りあげた「殻」である。それは、無意識にその人の行動を律する規範となっており、それを逸脱するような行動を自制するように、自分で自分にマインドコントロールをかけているのである。あなたの中に確立された「自己行動規範」「常識」の概念というものであろう。 また、戦中戦後の日本の教育は、ある意味でこの種のマインドコントロールを利用して児童・生徒を律し易くし、画一的な人間形成を図ろうとした。そして、他律的に行動するよう習慣づけられた人間は、無意識に規律・枠というものを求める。社会人になって会社に就職しても、「組織という枠の中に収まっていたい」という帰属意識が安心感をもたらし、会社という風土の秩序が維持されている。 自分で作った「殻」と、社会から他律的に与えられた枠組みの二つの「殻」が現代社会における多くの問題・・無関心、無責任、心の病、非行、犯罪・・・の原因になっていることに気付く人は少ない。 犯罪や非行は目に見える問題として誰もが認識できる。しかし、無関心、無責任、鬱病など、水面下に隠れて見えない問題は気づきにくいが、実は根深く、重要な意味を持っており、これらの目に見えない原因が引き金になって、徐々に目に見える問題へと進展してゆくことも考えられる。すなわち、目に見える問題だけを抑制しようとしても意味はない。いくら法律で人を縛っても、犯罪は減らない。いくら警察が監視を強めたとしても、犯罪や非行はなくならないのである。 目に見えないところの問題に目を向けるということは、大変難しい問題であるが、これを見直せば、犯罪や非行の原因がなくなるだけでなく、個人の生き方においても、もっと積極的な意味合いを見つけ出すことも可能なのである。 冒頭に書いた「目に見えるものを評価するのは容易である」という言葉を思い出してほしい。他人の批判や、不平不満など、人は自分の外部にある客体に対する評価を行いがちである。実際には外にあるものに対する評価というものは、あまり意味がない。重要なのは「あなた自身に対するあなたの評価」なのである。「己を知る」第一歩はそこにあると思う。 他人の評価など気にする必要は全くないのである。しかし、人は自分に自信が持てず、つい他人や先輩の評価をあてにしてしまうものである。しかし、そこには大きな落とし穴がある。相手がする評価というものは、相手のフィルターのかかった偏りのある評価なのである。あなたのことは、あなたが一番よく知っているはずである。知っているようで知らない、知ろうとしない・・他人の評価を気にしすぎて、自分がわからなくなってしまう・・・このような不安が、人の人に対する依存願望を潜在的に高めてしまうという危険な状態を生みだす。 何かに依存することにより安心感を得ようとする。そして依存する対象を失った場合の「喪失感」は極めて大きく、「鬱病」に陥ってしまうこともある。「依存」から抜け出すためには、「自律」ということが重要である。すなわち、「自分の評価は自分」で行う。自己の行動は、自己の確固たる信念に基づいて起こされなければならない。 話変わって、幼い子供にとっては「海」は脅威であり、青年にとって「海」は夢であり、漁師にとって「海」は生活の場である。同じ「海」をみても、人の精神的成長の度合いによって受け取り方は違ってくる。幼い子供は海が生活の場であることは知らない。ここで重要なのは「知らない人は知らない」ということである。すなわち、『知らない』ということを知らないのである。仕事をする上で、大変な障害になるのがこの点である。『知らない』ということを知らない人がどれほど多いか・・・それは『知っている人』にしかわからないことだからである。 知らないことを知らない人は、知らないという認識がないので、知っているかのように行動する。しかし、『知っている人』にはバレバレなのである。たとえば、翻訳をする上での「ごまかし」は、知っている人がみればすぐにわかってしまうのだ!ということである。『知らない』ことは恥ではない。「知らないということを知ろうとしない」あるいは「知らないということを隠そうとする」ことが恥なのである。自分自身に嘘をつくことはできないのである。外に対して嘘をついてつきとおすことはできるかも知れないが・・自分をごまかすことは最大の罪であることを認識しなければならない。 我々は、いかなる時も正直に、誠実に、そして謙虚であるべきであり、『知らない』ということを『知る』ことが何よりも大切である。それこそが、己を知る第一歩なのである。 (MIKO) |
第10回 | −己を知る− |