今回も第17回に引き続き『平家物語』関連の話です。巻6に「小督」の話があります。ここでは小督と高倉天皇の悲恋が描かれています。
 先ず、話に登場する人物について紹介しておきましょう。
小督局(こごうのつぼね):生没年未詳。宮中一の美女で琴の名手。藤原成範(なりのり)の娘で、成範の役職が内裏周囲の警衛や行幸の際の供奉・雑役を担当していた左兵衛督であったことから小督という女房名が付いたといわれています。
高倉天皇:1161〜81(応保1〜養和1)80代天皇で後白河天皇の第7皇子。平清盛の娘徳子を中宮にしていた為、在位中院政を行っていた後白河上皇と清盛との間で板挟みとなり苦労していたようです。
九条兼実の日記「玉葉」によれば小督より4歳年下である。
建礼門院徳子:平清盛の娘で高倉天皇の中宮となりましたが、高倉天皇が「葵前(あおいのまえ)」との別れで落ち込んでいたときに、元気を取り戻させようと小督を引き合わせた人物でもあります。壇ノ浦の戦いで我が子安徳天皇を抱いて西海に飛び込んだのもこの人です。
藤原隆房:平清盛の娘を嫁にしていますが、実は小督とはもともと恋仲であったのです。
葵前(あおいのまえ):平徳子に仕える女房衆の女童であったが、高倉天皇に見初められ、寵愛を深く受けるようになりました。しかし、身分の違いから離れざるを得なかったのです。
 平安時代、栄華を誇った藤原氏もそうであったように、平清盛も権勢を握るには天皇家と姻戚関係になることを最重要視していました。つまり自分の孫を天皇にして天皇の外祖父になることを目論んでいたのです。
清盛は十七歳の徳子を十一歳の高倉帝のもとへ入内させました。明らかに政略結婚でしかなかった訳です。
数え年で十一歳といえば小学校4年生ですから高倉帝は徳子よりも徳子に使える葵前に心を寄せて行きます。しかし、身分の違いもあって葵前は宮廷を離れ、まもなく亡くなります。そして高倉帝は塞ぎ込んだ日々を送ることになりますが、この姿を心配した徳子は天皇を慰めるために小督を差し向けます。
この時、高倉帝は十六歳、小督は二十歳だったということです。高倉帝が見目麗しい小督に慕情を抱くにはそんなに時間は必要なかったのでしょう。
今回は家柄も問題なし、誰はばかることなく溺愛するようになったのです。
ところが時の権力者、平清盛にとってはこれが面白くなかったのです。というのは小督の恋人は藤原隆房、そして今また高倉帝が小督を溺愛している。この二人の男性の正妻は二人とも清盛の娘だったからなのです。
『入道相国(平清盛)これを聞き、「中宮(徳子)と申すも御娘なり。冷泉少将(隆房)婿なり。小督殿に二人の婿を取られて、いやいや、小督があらん限りは世の中よかるまじ。召し出して失はん」とぞのたまひける。小督殿漏れ聞いて、「わが身のことはいかでもありなん。君の御ため御心苦し」とて、ある暮れ方に内裏を出でて、行方も知らず失せ給ひむ。主上(高倉帝)御嘆きなのめならず。昼は夜のおとどに入らせ給ひて、御涙にのみむせび、夜は南殿(紫宸殿)に出御なつて、月の光を御覧じてぞなぐさませたまひける』
清盛は「二人の婿を取られた」と殺してしまいたいほど憎んだのでした。小督は高倉帝に迷惑がおよんではいけないと宮中を抜け出し、嵯峨の辺りに身を隠したのです。

 しかし残された帝は、またも嘆き悲しみに暮れてしまいます。そしてある日、高倉帝は弾正少弼仲国という笛の名手に小督を捜し出すように命じます。
仲国は「こんな月の夜は、琴の名手である小督殿のこと、必ず帝のことを思って琴を弾いていることでしょう」と初秋の名月の夜、馬に乗り嵯峨に出かけました。嵯峨を探し回りましたが見つからず諦めようとしたその時、法輪寺に程近いあたりで、かすかに琴の音が聞こえてきました。






『亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒を速めて行くほどに、片折戸したる内に、琴をぞ弾きすまされたる。控へてこれを聞きければ、少しもまがふべきもなき小督殿の爪音なり。楽は何ぞと聞きければ、夫を想うて恋ふと読む想夫恋といふ楽なり』
 小督の居場所をつきとめて、急ぎ宮中に馳せ戻る仲国。再度の高倉帝の命により小督をそっと宮中に迎え入れる緊迫感。前回の「祇王」の話し同様、「小督」の嵯峨での話も女の悲しみが叙情詩的に表現され、筆者の好きな名場面のひとつです。
こうして高倉帝は以前にも増して小督を寵愛し、範子内親王をもうけることになったのです。ところが、清盛の娘の中宮徳子より先に天皇の子供を宿したことがさらに清盛の怒りを招く結果となりました。
小督二十三歳の時、清盛に捕らえられ尼にさせられ濃い墨染めの衣というみすぼらしい姿で内裏を追い出され、嵯峨野に再び隠棲することになりました。

  「平家物語」では高倉帝は小督が去った悲しみで二十一歳の若さで病気になり、崩御したと伝えています。
小督は高倉帝が葬られた清閑寺近くに庵を結んで生涯をかけて天皇の菩提を弔い、四十四歳でこの世を去りました。清閑寺の北にある高倉天皇陵内に小督の墓と伝えられる宝篋印塔があるそうです。また清閑寺の庭には小督の供養塔である宝篋印塔(比翼塚ともいう)が後世に建てられました。 

 ところが実際の史実から高倉帝を推測して見ると、小督が範子内親王を生み宮中を去った翌年から3年ほどの間に中宮の徳子が言仁(安徳天皇)、藤原殖子が守貞(後高倉院)と尊成(後鳥羽天皇)、少将局が惟明、按察典侍が潔子を生んでいます。事実はこの通りですから、「平家物語」に書かれているように、小督ひとりを愛し続けていたという純愛小説的な話は如何なものでしょう。
一方、この時の社会情勢はというと1180(治承4)年には、2月に安徳天皇に譲位。4月には兄の以仁王(もちひとおう)が平重衡と宇治川で戦い敗れて戦死。6月には福原遷都があり、8月には源頼朝の挙兵、10月には木曾義仲が挙兵。12月には平重衡が東大寺・興福寺を焼き払うという事件が続きました。
実際、高倉帝の心痛はかなりのものだったのでしょう。翌年正月、二十一歳の若さで崩御したというのは小督との別れの悲しみが原因ではなく、これらの事件が大きな要因の一つだったのではないでしょうか。


 以上がMETROに掲載した内容ですが、小督の謎はまだあります。
   『酒は飲め飲め飲むならば
    日の本一の此の槍を
    のみとる程に飲むならば
    これぞまことの黒田武士』

とは福岡県に伝わる黒田節ですね。黒田藩黒田長政の家臣母里太兵衛が大杯を呑み干して、広島藩主福島正則から「日の本号」という名槍をいただく「武士に二言はない」というストーリーです。



ところが、この黒田節の三番の歌詞が何故か平家物語の上記の部分と同じなのです。
   『峰の嵐か松風か
    尋ぬる人の琴の音か
    駒をひかえて聞く程に
    爪音しきる想夫恋』

福岡県田川市に道成寺という寺があります。その寺の寺伝と「小督局畧縁起」によると
『小督は太宰府にある観世音寺の血縁の僧を頼って九州へ向かいました。田川郡香春町を過ぎ行くとき、雨が激しく降りだし彦山川が増水して、渡ろうとした小督は川に流されたのです。運よく里人に助けられて道成寺に逗留することになりました。
しかし、小督は慣れぬ旅の疲れから病の床に着き村人たちの手厚い看護のかいもなく、1179年4月、25歳の若さでこの世を去ったのです。小督の薄幸を哀れんだ郡司によって九重の石塔を建てて弔いました。そして村人の手向ける香煙は絶えることがありませんでした。』
となっています。
蛇足のようですが、郡司が建てた石塔は九重となっています。写真の石塔はご覧のように七重です。田川市教育委員会の説明では「かつて九重塔であったとの伝えがある」とし、上部の九輪の中央部には折れた形跡があり、地震等で倒壊して修復過程で七重になったのでしょうか。

 さて、黒田節は昭和3年、NHKのラジオで放送され、一躍有名になったそうです。
それまでは黒田藩歌「筑前今様」として歌い継がれていました。
今様というのは替え歌も多く黒田節の1番の歌詞も豪放磊落な母里太兵衛の話から作られたものでしょう。
母里太兵衛は福岡県嘉麻市の益富(ますとみ)城の城主になったこともあり、墓は同市の麟翁寺にあります。
なぜ、黒田節に平家物語の小督の一節が歌われているのかは不明ですが、この麟翁寺と道成寺は距離にして10km強でしょうか。
母里太兵衛も小督局もこの地域の伝承として今様に歌い継がれてきました。その今様が黒田藩家臣母里太兵衛の歌であることから筑前今様となり、黒田節として現在に至っていると筆者は推理してみたのですが、事実はどうでしょうか?
また、小督の墓が京都と田川の2箇所にあり、ことの真相を探ることは今となってはできませんが、いずれも歴史のロマンを感じさせる話と思って興味深いですね。
(遠藤真治記)
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