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寺田屋騒動の場
灘の辛口のお酒を男酒、伏見の甘口のお酒を女酒というそうですが、下戸の私にはよく分かりません。でも地元で搾りたてのお酒を飲めばやはり美味しく感じるものです。
 私たちは寺田屋の近くまで戻ってきて黄桜酒造直営の店で昼食を共にしました。まろやかできめ細かく磨かれた味伏見の酒を伝えようとする人々のたゆまぬ努力、この心意気を感じ取りつつ、旨酒(うまざけ)を飲みながらそこで幕末歴史談義と酒の薀蓄に花を咲かせたことはいうまでもありません。


(遠藤真治記)
ところが久光は公武合体論者でこの過激派の動きに激怒しました。そして過激派慰留の名目で有馬新七の親友であり同志の奈良原喜八郎ら九名を差し向けたのでした。結果は同志が刃を交える事になり、壮絶な戦いが繰り広げられた結果九名の死者が出たのでした。
 彼らの遺体は伏見の薩摩藩邸の近くの大黒寺に埋葬され薩摩藩九烈士と呼ばれています。彼らの墓の墓碑銘は西郷隆盛が涙ながらにしたためたということです。現在の薩摩藩九烈士の墓は再建されていますが古い墓から拓本をとって文字を写し取っています。
 寺田屋の女将のお登勢さんは気風のよさと面倒見のよさは「竜馬がゆく」で紹介されている通りです。


 さて、幕末の気分に浸った後は、やっぱりここは伏見。お酒を味わわなくってはならないでしょう。半分義務のように感じるのは筆者だけでしょうか?午前中だけお付き合いいただいた京都のご婦人は用事があり、名残惜しいのですがここでお別れすることにしました。
 伏見の蔵元ではお酒のできるまでを紹介しているところもあり、食事もできお酒を飲むこともできる酒造メーカーもあります。
酒蔵の風景
 寺田屋でのもう1つの大きな事件は1862年の「寺田屋騒動」でしょう。
その時、寺田屋に集まっていたのは薩摩藩士有馬新七を首領とする同藩の過激派および真木和泉を盟主とする浪士団合せて30余名でした。彼らの目的は島津久光の上洛を機に京都所司代を襲撃し、久光を説いて入洛中の薩摩の兵を味方に入れ、京都を占拠したのち勤王諸侯の参軍を得て、一気に幕府を倒そうというものでした。
弾痕
刀傷
 私達も官吏たちが移動しただろうと思われる道を辿って寺田屋まで歩きました。途中伏見の風情を感じさせる酒蔵の景色を眺めながら歩くこと10分。日本の歴史を動かした青年がここにいたと思うとこれまた身震いを感じるような感動につつまれました。

 寺田屋に着くと大きな軒提灯と「旅籠」の看板が目につきました。龍馬の寝泊りした部屋(写真下)もそのままの姿で残っており私達は興味を持って見学させていただきました。

 官吏が寺田屋を取り囲んだ時、その状況をいち早く察知した寺田屋の養女おりょうが風呂場から裸で跳び出し階段を駆け登って龍馬に知らせたという話の現場もじっくり見てきました。柱にはこの時に付いたとされている弾痕や刀傷も保存されていましたが実際のところ刀傷はよく分かりませんでした。
寺田屋のおりょうさんが跳び出したお風呂
寺田屋龍馬の部屋.
寺田屋へ
伏見奉行所跡
 1キロぐらい離れているのかと想像したのですが、なんと驚くなかれ、たった300メートルぐらいしか離れていなかったのです。この距離なら官軍の重火器アームストロング砲の射程距離範囲内なのです。官軍の砲撃で新選組ら幕府軍は大阪へと退却せざるを得なかったのでしょう。私たちは「闘将の土方歳三はこのとき負けを悟った。土方の剣の道は何だったのだ」なんて分かったようなことを話しながら幕末ロマンに浸ったのでした。

新選組といっても私たちの間では何故か近藤勇は人気が無いのです。それは土方の突出した武士道を函館の最後の戦いまで見ることができたからなのでしょうね。
 伏見城から城下町へ降りていくには大手筋通りを歩きます。大手とは城の表門の事です。ですから城下町には大手町とか伏見のように大手筋というような地名が残っています。伏見城から15分も歩いたところに御香宮神社があります。
 ここの拝殿の前には「御香水」が湧き出しています。伏見酒造組合の言を借りれば『日本名水百選のひとつにも選ばれ、水質はカリウム、カルシウムなどをバランスよく含んだ中硬水で、酒づくりに最適の条件を満たしています』ということになります。この水を求めて喫茶店の店主の方がこの水を汲みに来られていました。
 さて、この神社ですが862年、福岡の香椎宮から祭神(神功皇后)を勧請したことに始まり、安産の神様として信仰されています。
 神功皇后が安産の神として信仰されているのは、新羅征伐の時、臨月でありながら下腹部に石を巻き出産を遅らせながら攻め、帰国後に無事子供(応神天皇)を出産したという話によるのでしょう。このように歴史のある御香宮神社ですが幕末には鳥羽伏見の戦で薩摩藩(官軍)の陣営となりました。
御香水
御香宮本殿
インターネットで知り合った神奈川の友人と京都のご婦人と伏見の町を歩いています。
前回は伏見の平安時代から江戸初期までの史跡を回りました。

今回は幕末とお酒の関連の史跡・名所を歩きます。


御香宮神社へ
第7回     − 伏 見 −

伏見奉行所へ

そうなると私は、相手陣営の幕府軍や新選組が陣取った伏見奉行所も見たくなり、「行ってみる?」と聞くと好奇心旺盛な京都のご婦人も行こうと言います。神奈川の友人も考え込んだ末行くことになりました。