四条河原町界隈といえば京都随一の繁華街です。この繁華街で何があったのでしょうか。
幕末に目を向けて史跡を巡りながら紹介しましょう。

参考文献 『明治維新と京都』・『壬生浪士始末記』・『京都守護職始末紀』・
       『維新土佐勤王史』・『新選組日誌上』・『竜馬がゆく』
幕末、維新が薩摩から函館まで広大な地域を巻き込んだ一大変革期だったのですが、たった数百bのこの間で日本の近代を生み出した事件があったのは感慨深いところです。

                                             (遠藤真治記)
 三条通を渡って更に南に歩くと彦根藩邸跡、土佐藩邸跡(写真↓)がありさらに南には前出の古高俊太郎宅があります。
↓吉村寅太郎石碑
吉村も土佐勤皇党に参加しており、1863年8月天皇の大和行幸が決ると天誅組を組織して天皇を擁して一気に倒幕に突き進もうと奈良県五條市で挙兵しました。しかし、翌日長州藩を御所から締め出そうとする薩摩・会津藩のクーデターが起こりました。天皇の大和行幸は中止となって吉村の挙兵は失敗に終わっています。この挙兵は幕末の武装蜂起最初の出来事であり、五條市に行けば「明治維新発祥の地」の文字を見ることができます。

←武市瑞山石碑 




 ↓佐久間象山石碑
 幾松から木屋町通りを四条に戻るように南に歩いていくと佐久間象山・大村益次郎遭難の地があります。佐久間象山は松代藩士であったが江戸に出て幕末の先駆者となりました。横浜開港に尽力した人物で弟子に吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬らがいます。さらに幕府や朝廷に働きかけ、開国を説きましたが、1864年この地で攘夷派に暗殺されてしまったのです。
 御池通りを渡ると佐久間象山寓居跡、続いて土佐勤皇党の武市瑞山の寓居跡があります。現在は金茶寮という料亭になっていますが池田屋の変のとき土方歳三隊は討幕派が会合をしているのではないかと踏み込んだ「四国屋」というのはここのことです。

 その南隣に吉村寅太郎寓居跡というのがあります。
↓料亭幾松の長持
 ホテルの東側木屋町に出ると料亭「幾松」があります。ここは桂小五郎と夫人となった幾松との寓居跡です。禁門の変の後幕府の取締りが厳しく桂小五郎は永くここに住み続けることはできませんでした。ある日近藤勇はじめ新選組が桂小五郎を捕縛に来たとき、幾松は小五郎を長持ちの中に隠して頑としてその長持ちを開けさせませんでした。幾松の迫力に負けて近藤は引き上げたという逸話のある長持ちを今でも見る事ができます。

 その池田屋から北へ3分のところに京都ホテルオークラがあります。

ここが長州藩邸のあったところです。池田屋の変に端を発した長州藩による7月19日禁門の変のときここ長州藩邸から出た火はやがて京の町を焼き尽くす大火になりました。現在はホテル西側の河原町通りに面して桂小五郎の銅像が立てられています。


←桂小五郎銅像長州藩邸
彼の蔵からは討幕派のクーデター計画(御所を焼き払い、その隙に乗じて天皇を擁し勤皇攘夷の詔勅を発する)に使うための鉄砲、焔硝、焼玉等が出てきました。もはや古高俊太郎は言い逃がれできません。彼に対する拷問は凄惨を極めました。古高はよく耐えましたがついに計画を口走ったのです。だが、この日の討幕派の会合場所は吐かなかったので、新選組は賀茂川を挟んで三組に別れ一軒一軒虱潰しに御用改めを行いました。近藤勇らが池田屋に斬り込んだのは探索を始めてから数時間かかった事もこのことを裏付けています。

 勤皇の志士は不意を衝かれた。新選組の迫力が勝っている。池田屋の廊下は狭く刀は自由に使えない。結果は新選組の完全勝利だった。ただ資料も少なく詳細な事は分かりません。いろいろな説を総合すると当日の勤皇側の死者4〜5名、後日の死者併せて7名、捕縛者20数名、新選組死亡者3名ではないでしょうか。ただ確実に言えることはこの事件がきっかけとなって長州藩が大挙京都に押し寄せ禁門の変に発展していった事でしょう。
 酢屋の裏手北側一筋目が三条通です。ここに池田屋という旅籠がありました。(左写真:池田屋跡)

 1864(元治元)年6月5日、祇園祭の夜は更けて、突如響きわたるは殺戮の声。
 事の始まりは長州藩邸に浪人の出入りが激しくなり、新選組が「不穏な動きあり」と察知した事です。探索を進めるうち長州藩邸出入り商人、道具屋枡屋喜右衛門こと勤皇志士古高俊太郎が新選組に捕らえられました。
 酢屋は土佐藩出入りの材木商でここの二階は海援隊京都本部になっていました。坂本龍馬はこの酢屋で自ら創案した大政奉還の最終段階の仕上げに取り掛かっていたのです。大政奉還とは幕府が朝廷に全国統治の権限を返還するということなのですが、土佐藩と薩摩藩にとってはそれだけにとどまらなかったのです。実は両藩が組み、二条城で徳川慶喜に大政奉還の動議を上提することを名目にして土佐藩兵と薩摩藩兵を上洛させ、慶喜がこの案を受け入れぬときはこの兵を持って一気に倒幕に走るという意味も含んでいたのです。龍馬の案に土佐藩が乗ったのはこれまで薩摩・長州に対して政治面での主導権に遅れをとっていたからなのでしょう。これで政治のイニシアチブをとるチャンスが見えて来るからなのでしょう。現在の酢屋は一階が木材工芸品の販売、二階が龍馬関連のギャラリーになっています。写真は去年の11月15日に撮ったもので酢屋では毎年この日から10日間龍馬追悼展を開催し龍馬遺品・海援隊文書を公開しています。
↑酢屋                →酢屋右側石碑
 1867(慶応3)年11月15日、龍馬は風邪をひきこの日は熱があった。中岡慎太郎は白川にある陸援隊京都本部から土佐藩邸に行った後、ここ龍馬の隠れ家を訪れたのでした。夜9時過ぎでしょうか二人は軍鶏鍋を食べることにしました。それでたまたま居合わせた「菊屋」の峰吉に軍鶏肉を買いに行かせたのでした。龍馬達の居た二階には下僕の藤吉もいました。そのとき何者かが近江屋に入ってきたのです。幕府の見廻組組頭佐々木唯三郎以下六人の刺客で、応対に出たのは藤吉でした。刺客らは「坂本先生に取り次ぎ願いたい」とでも言ったのでしょうか?その時龍馬に取次ぐために階段を上っていった藤吉が後ろから刺客に切られたのです。刺客は藤吉の動きを見て龍馬の居場所を知りました。その後の刺客の動きは速かった。龍馬と慎太郎のいる部屋に飛び込むなり二人に太刀を浴びせた。一瞬の出来事である。龍馬は前頭部に慎太郎は後頭部に初太刀を受けた。龍馬と慎太郎には手元に刀がない。龍馬は床の間の佩刀を取ろうとして身をひねった。刺客がこの機を逃すはずはない。さらに二ノ太刀を左肩先から左背骨にかけて斬り込んだのである。刺客たちはよほど人を斬ることに手馴れていたのだろう。佐々木唯三郎は12月号で書いた清河八郎を江戸赤羽橋で謀殺している人物です。

 龍馬がこの近江屋に移ってきたのは、これまで宿としていた海援隊京都本部には幕府の偵吏が嗅ぎまわっていたからです。薩摩藩や龍馬の仲間は危険を感じて安全と思われる近江屋を探し出し、同年10月13日に移動してもらったのだった。

 おりしもこの日は徳川慶喜が二条城に諸藩重役を集めて大政奉還を決した日だったのです。龍馬が考え出した血を流さずに政権交代をはたす案が現実となった日なのです。坂本龍馬は勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎、後藤象二郎、乾退助等に影響を与えられるスケールの大きな人間だったし、戦いを好まない人間でした。歴史に「もし」はないのですが龍馬が暗殺されていなかったらおそらくこの後の戊辰戦争は起こらなかったでしょう。


 近江屋への移動前に居所としていたのが河原町三条から一筋南側の通り(車道)を東に入ったところにある「酢屋」なのです。
 四条河原町北東角から北へ50b行ったところに「あぶらとり紙 象」という店があります。この店の前には「中岡慎太郎寓居の地」という石碑が建っています。ここは元土佐藩御用達の書店「菊屋」という本屋で司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」にも峰吉少年と共に登場してくる店です。慎太郎は坂本龍馬とともに薩長同盟締結に活躍し、江戸幕府崩壊に大きな役割を果たした人物の一人です。その慎太郎がここで寝起きをしていたのです。

 慎太郎の寓居から北へ100b程行った通りの向かい側に京阪交通社があります。ここは坂本龍馬と中岡慎太郎の遭難の石碑が立っています。即ち幕末は醤油屋の近江屋があったところです。

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第4回 -幕末の京都を訪ねて-

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