写真:銀閣寺観音殿と銀沙難
観音殿は2層からなり1層目を心空殿といい、書院造り、2層目は潮音殿といい、漆塗の板壁に花頭窓を並べた禅宗仏殿造りになっています。
観音殿を楽しんで方丈に向かうと白砂の高く盛りあげられた向月台と、やはり白砂が30cmほど盛られ波紋が描かれた銀沙灘(ぎんしゃだん)が目に飛び込んできます。
これまた、印象的なのですが、これは江戸時代になぜか突然に作られたということで義政とは関係の無いものなのです。
方丈の隣には東求堂がありますが、本来は阿弥陀堂だったところです。つまり浄土信仰の中心的建物として東求堂を建て、その中に四畳半の書院、同仁斎を作ってあります。この同仁斎こそが草庵茶室の源流であり、現在の四畳半の間取りの原点となっているのです。さらにその前には禅宗様式の庭園が造られ、ここに義政の精神世界を垣間見ることができるような気がします。
義政の作り出した書院造りは現在でも日本家屋に影響を与え、侘び寂びの世界や生け花・茶の湯など、現在の日本文化の原点をここに見出すことができると感じたのでした。
                                                遠藤真治記

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写真:銀閣寺総門
写真:銀閣寺
写真:法然院白砂壇
写真:法然院山門内側
平重衡                                   
時は1180(治承4)年12月、平家が滅びの道をひた走っているときである。奈良東大寺、興福寺の堂塔伽藍を焼き尽くした男がいた。                       
                          
その名を平重衡という。武士が戦いで傷つけ合うのは致し方ない。しかし如何に平氏の反勢力といえ寺仏を焼き払うとは人にあるまじき行為。「仏に見放され、未来永劫に救われない」となればこれほど恐ろしいことはない。
その重衡も1184年一ノ谷の合戦で敗れ源氏に捕われの身となったのである。そして重衡が懇願したことは「法然に逢わせてくれ」ということだった。
重衡に会った法然は「罪、深けれど仏の教えに帰依するならば、往生を遂げる」と言い切ったのだ。偉大なり法然。 
 
                                      
法然院へ  

 法然院の正式名称は善気山法然院萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ)といいます。法然が弟子の住蓮・安楽と共に昼夜にわたって阿弥陀仏を礼賛した草庵を念佛道場にしようと、浄土宗総本山知恩院の萬無和尚が発願したのが始まりです。

入山口の荘厳さに比べ山門は質素で落ち着いた感じの門です。この山門を潜ると両側に白砂が盛ってあり、なにやら絵が描かれています。これを白砂壇(びゃくさだん)と言い水を表わしていて心身を清めて浄域に入ることを意味しているのです。

雑念を払って白砂壇の間を通り過ぎると右手に講堂があります。奈良の大寺院の講堂とは随分違った趣なのです。しかも、この日はここでガラス工芸の展示会が催されていました。よくよく話を聞くと講堂といっても初めは僧侶の浴室だったものを改装して講堂としたものだそうです。

今の貫主さんは京都市景観・まちづくりセンター評議員、京都芸術センター運営委員等をなされていて芸術全般にご理解があるようで、一見寺とは不釣り合いな感じを受けた展示会もこの話を聞くと納得がいきました。

本堂には恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来座像と、法然上人立像、萬無和尚坐像他が安置されていますが桜の頃、紅葉の頃を除いて公開はされていません。方丈には狩野光信筆の襖絵と堂本印象筆の襖絵があるのですがこれも今日は見ることが出来ませんでした。
恵心僧都源信の往生要集「善人なをもて往生をとぐ、いはむや悪人をや」の一説を思い浮かべながら安楽寺から北へ法然院に向かいました。
観光目的で行くならこれらの堂宇を見たところで引き返すのですが、興味のある方は墓地の方まで足を延ばしていただきたいものです。

日本画壇の最高峰に確固たる位置を占た福田平八郎氏(写真:右)、明治から戦後まで活躍した文豪谷崎潤一郎氏(写真:左上)、マルクス経済学の第一人者であった河上肇氏(写真:左下)、哲学者の九鬼周造氏、東洋史学の内藤湖南氏らの墓石を見ることができるでしょう。

法然院を出てさらに北へ向かうと銀閣寺の総門前に出てきます。
銀閣寺へ  
銀閣寺というのは足利八代将軍義政が1482年に造営したとなっています。三代将軍義満が建てた金閣と対比され銀閣と呼ばれますが、義政の法名慈照院喜山道慶からとった東山慈照寺(とうざんじしょうじ)というのが正式名です。
ただし、銀閣とう呼び名は江戸時代になってからだそうですから、当然、創建当時から銀箔が張られていたということはないのです。
金閣寺を建てた三代将軍義満は守護大名を排斥し、中国の明との貿易で富を蓄え独裁政治を貫いた強い将軍でした。
ところが義政は七代将軍義勝が16歳で早世した後を継いで1449年15歳で征夷大将軍になっています。
子供が将軍になるということは既に将軍職というものが形骸化していたということでしょう。
これといった業績を上げることなく30歳を過ぎた時、弟で僧だった足利義視を後継者として還俗させたのですが、翌年には義政の正室日野富子に義尚ができたのです。
ちょうどそのころ紀州の畠山家と越前の斯波家でも家督承継問題が起こっていました。そこに義視と義尚との将軍跡目相続争いと来れば・・・・。
ついに1467年、京都を焼き尽くしてしまう11年に及ぶ応仁の乱の始まりとなったのです。
義政33歳。ここで一番頑張らなくてはならない時なのに、日野富子に政務・財務を任せてどうやら酒びたりの生活に逃避してしまったようです。
1473年に義政は将軍職を子供の義尚に譲り、自らは東山に山荘を造り、自分の世界を作り上げて行ったのでした。
つまり銀閣寺は義政の美学を基に完成した山荘、東山殿(ひがしやまでん)だったのです。
 総門を入ると銀閣寺垣と呼ばれる石垣の上に竹垣その上の椿の生垣からなっているのです。法然院の白砂壇のような役割で、この50mほどの生垣を歩く間に雑念を洗い流しておきましょう。

銀閣寺垣のもう一方の端に中門があり、この中門を潜ると観音殿が現れます。一般に知られている銀閣寺の建物なのです。