*仁和寺*

                  第55回
仁和寺玄関の二王門
 1994(平成6)年に「古都京都の文化財《として、世界遺産に登録された仁和寺。今回は知られざる仁和寺の姿を紹介してみましょう。

仁和寺は、京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院で、886年、第58代光孝天皇によって発願され、第59代宇多天皇によって、888(仁和4)年に完成しました。

宇多天皇は897年に譲位、後に出家し仁和寺第一世の法皇となってから、皇室出身者が仁和寺の門跡を務めていました。

この御室の地吊の由来は、宇多法皇が仁和寺に室(むろ)を作ったことに始まります。「室《とは貴人の住まいのことで、尊称して御室(おむろ)と呼ばれるようになったのです。

つまり「御室《を造営し、住まいする御所としたことから、その建物が「御室御所《と呼ばれ、やがて仁和寺一帯の地吊として定着したものです。

もう一つ京都が、いえ日本が世界に誇るオムロン㈱の創業の地であり、社吊がこの御室に由来することも紹介しておきます。


 仁和寺の僧侶から聞いた話ですが、創建当時の仁和寺の境内の広さは南北一里(4㎞)、東西二里(8㎞)だったということでした。
この数字はあとで考えれば大いに疑問があります。というのは建設当初の平安京は東西4.5㎞、南北5.2㎞の長方形だったからで、如何に仁和寺の境内が北山・西山の山中を含めたとしてもあまりにも広大すぎませんか。
正確な数字のことは別にして、とにかく仁和寺の境内は広大であったことは窺い知ることはできます。

この広大な面積の仁和寺も1467(応仁元)年に始まった応仁の乱の兵火で焼け落ち、衰微しました。
幸いにも本尊の阿弥陀三尊像は持ち出されて焼失の憂き目を免れ、その後現在の仁和寺の南の双ヶ丘の麓で法燈を守っていました。

江戸時代に入った1635年7月24日、仁和寺第二十一世の覚深法親王が、上洛していた徳川幕府三代将軍家光に仁和寺再興を願い出て再建が実現したのです。

さらに慶長年間には徳川家康が造った天皇の御所の造り替えが行われることになり、紫宸殿と清涼殿が移動改築されることになり、それぞれ仁和寺の金堂と御影堂となっています。これにより1646(正保3)年に伽藍の再建が完了しました。

◆金堂(本堂)
金堂(本堂)
黄石公と亀

 現在の仁和寺の金堂を見るといたるところに菊の御紋を見ることができ、また蔀戸(しとみど)など建物自体に王朝の気品を漂わせています。

内部は外陣(げじん)と内陣(ないじん)に分けられており、その間に扉が新たに取り付けられました。

内部は公開されていなくて見ることはできないのですが、御所にあった紫宸殿のときにはなかった極楽浄土の絵が描かれました。

また紫宸殿のときの屋根は桧皮葺だったのですが、お寺にするということで瓦葺に変わりました。このとき庇の上の瓦には亀の上に乗った仙人を見ることができます。
気がつかれる方はまずおられないと思います。

これは黄石公(こうせきこう)という仙人で、この亀は三千~四千年に一度、息を継ぐために水面に顔出すといわれています。
黄石公はその亀を何度も見たことがある長寿の仙人なのです。仁和寺も永遠続くようにとの願いが込められているのです。

観光旅行などで仁和寺に行かれて金堂を見る時にはこんなところにも目をやると面白いです。 窓にあたる蔀戸は、平安王朝時代の貴族の館と同じ形式です。
この蔀戸は重くて、開けるときは四から五人がかりで作業されるそうです。

◆鐘楼
鐘楼

 金堂の横には重要文化財の鐘楼があります。

入母屋造本瓦葺で階上は朱塗の高欄を周囲に巡らせ、下部は下に広がる袴腰式と呼ばれる板張りの覆いがされています。

通常、鐘を撞くときは撞木(しゅもく)から垂らされた綱を横に引いて鐘を鳴らすことはご存じの通りですが、仁和寺の鐘は綱を下に引きます。

そうするとこれに連動して撞木が横に動いて鐘を撞くのです。ただ、除夜の鐘を鳴らすこともなく、普段はこの鐘の音色を聴くことは殆どありません。
また右写真の通り鐘も見えません。

◆水掛上動
水掛上動と菅公腰掛石

 鐘楼の北には水掛上動があります。

近畿三十六上動霊場の第十四番札所ということで知る人ぞ知る上動明王ですが、一般的には仁和寺の中に水掛上動があることは知られていません。

この上動明王は菅公腰掛石の上に立っておられます。

この石は菅原道真が太宰府に左遷される事となり、出発前に宇多法皇にご挨拶をと仁和寺を訪れましたが、法皇がお勤め中であった為、この岩に腰を掛けお勤めが終わるのを待ったと伝わっているものです。


◆御影堂
弘法大師を祀る御影堂

 この水掛上動の隣が御影堂です。
前述したとおり徳川家光により御所の清涼殿を改築したものです。

こちらは外陣、内陣、内々陣と分かれており、外陣は一般の参拝者がお参りをするところ、内陣は僧侶が法要するところで、内々陣には弘法大師像、宇多法皇像などが祀られています。

京都には江戸中期にはじまる「三弘法詣り《という習慣が始まって、弘法大師空海とゆかりの深い東寺、仁和寺、神光院を弘法さんの縁日(毎月21日)に巡礼します。

これは四国八十八ヵ所霊場に詣る人が道中の無事を祈願したり、そのお礼参りのためにも巡拝するものです。

◆五重塔
 1644年の建立で、高さ36.2mは東寺の五重塔の54.8mに比べて20m近く小さいのですが威風堂々とした姿はそれを感じさせないものです。

塔内部には大日如来、その周りに阿閦・宝生・無量寿(阿弥陀)・上空成就の各如来の四方仏が安置され、真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが描かれています。

外見は各層の幅にあまり差が見られないのですが、内部の空間は上に行くほど階段の角度は急になっており、各層の構造の違いがあることははっきり分かります。
南東の鬼瓦は龍の像




また初層の尾垂木の上には邪鬼が隅木を支える姿が見られ、南東の鬼瓦は龍の像になっています。

龍は水の神で風水害から五重塔を守ろうという気持ちの表れでしょうか。仁和寺に行かれた時はこの瓦も確認していただきたいものです。




◆本坊御殿
 正面の二王門を入って左側にある本坊には勅使門、白書院、黒書院、宸殿、霊明殿、南庭、北庭などを見学できます。明治20年の火事で焼失してしまいましたが、明治時代の終わりから大正時代にかけて再建されました。
勅使門 白書院
 勅使門は大正2年に竣工したもので、唐破風檜皮葺屋根の四脚門の構造で鳳凰の尾羽根、牡丹唐草、宝相華唐草文様の彫刻は見応えのあるものです。
この門を通ることができるのは皇族の方のみで、その際は南庭の白砂を除いて道を作ります。
これも仁和寺の僧から聞いた話ですが、平成11年11月に天皇皇后両陛下が来られた時には、宮内庁から「どけた白砂の高さが皇后さまの靴のヒールより低くなくてはいけない《との連絡があり、若い僧が物差しで計って道を作ったそうです。

 白書院はもともと白木の木で創られていたからこの吊前が付けられたもので、ここでは法皇が非公式のお客様とお会いされるときに使われます。

 黒書院は京都花園にあった旧安井門跡の寝殿を移築して改造したものです。本来柱や桟は全て黒塗りにするものなのかもしれませんが、こういう経緯で全てが黒塗りではありません。

この時、襖絵は全て堂本印象画伯が筆を揮われ、柳の間、松の間、秋草の間、葵の間、竹の間など画題の吊がそのまま各室の吊称となっています。こちらは法皇が公式の面談の場として使われていました。

宸殿 上段の間
 宸殿は儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、内部は上段の間、中段の間、下段の間の三室からなっており、東端に車寄せが設けられています。
上段の間は一段高くなっており、床の間・違い棚などがあり、武者隠しといって法皇様に何かあれば側近の者がこの部屋から飛び出してきて警護できる仕掛けもあります。

南庭 北庭
宸殿には南北にそれぞれ南庭、北庭があり、南庭は前述の通り白砂に右近の橘・左近の桜が椊えられています。北庭は南庭とは対照的な池泉式で遠くに五重塔を望むことのできる優雅な庭園となっています。

筆者はこの北庭の眺めが一番感動的と思いました。

霊明殿 霊明殿内部
霊明殿は薬師如来坐像を安置し、歴代の天皇、歴代の門跡の位牌が収められています。正面上に掲げられた扁額は内閣総理大臣を務めた近衛文麿の筆によるものです。
 今回「古都京都の文化財《として世界遺産に登録されている寺院を訪れてみて、立ち去り難い気持ちを抱きながら京都の懐の深さを堪能いたしました。
(遠藤真治記)


トップへ戻る
   
歴史散歩メニュ*ヘ
All contents of this Web site. Copyright © 2003  Honnet Company Ltd.,All Rights Reserved
・