− 和歌三神 −

第44回
 和歌三神とは和歌を守護する三柱の神のことで、一般的には住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂がそれにあたる。
しかし、その他にも、柿本人麻呂・衣通姫(そとおりひめ)・山部赤人や住吉明神・玉津島明神・天満天神とするなど諸説がある。
ここで馴染みのない衣通姫は、「古事記」や「日本書紀」の中で絶世の美女とされ、その美しさが衣を通して輝くことからこの名が付けられている。
「古事記」では第十九代允恭天皇(在位・412〜453年)の第五皇女とされ、「日本書紀」では允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・八田王女(やたのおうじょ)とされている人物である。
和歌山の玉津島神社の由来によると、病気の光孝天皇(在位・884〜887年)の夢に衣通姫があらわれて、
  たちかえり またも此の世に 跡たれむ
          名もおもしろき 和歌の浦波
と詠んだ故事により、勅命により衣通姫を玉津島神社に合祀したとされている。

 住吉明神や玉津島明神がなぜ和歌と関係があるのだろうか。『住吉大社神代記』には住吉明神が現れて軽皇子
(かるのみこ)に歌で答えたことや、『伊勢物語』に「住吉に行幸の時、大御神現形(げきょう)し給ひてとしるせり」と天皇に和歌を返したとあり、住吉明神が現人神(あらひとがみ)として和歌で託宣を行ったことが知られている。
また、住吉の地は老松が浜辺に茂る風光明媚な名所として知られ、和歌によまれることはしばしばあり、住吉神社の社頭では歌会や住吉歌合が行なわれた。

藤原俊成(しゅんぜい)や藤原定家(ていか)らの和歌の名手から、松尾芭蕉のような俳諧師に至るまで多くの文人墨客に参詣されていることからも住吉明神が和歌の神として相応しいと考えられる。

玉津島明神については724年10月、聖武天皇が「弱浜(わかのはま)」に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、その浜を「明光浦(あかのうら)」と改め、その浦から見渡せる玉津島に祀られていた神も明光浦の霊(あかのうらのみたま)と呼ばれるようになった。

この時、同行した万葉歌人山部赤人の詠んだ歌が
  若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
である。

 玉津島は、奠供山(てんぐやま)、雲蓋山(うんがいさん)、妙見山(みょうけんさん)、船頭山(せんどうやま)、妹背山(いもせやま)、鏡山(かがみやま)の六つの山が海に浮かぶ玉のように、海中につらなった美しい眺望を見せ、和歌に詠われる名所(歌枕)となった。
 住吉明神や玉津島明神はもともとが神であるのに対して、柿本人麻呂は現実の人間であり、飛鳥時代の有名な歌人である。

もう少し人麻呂について考察してみよう。
平安時代のはじめ、最初の勅撰和歌集「古今和歌集」の仮名序には
いにしへより、かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ、ひろまりにける。
かのおほむ世や、哥の心を、しろしめしたりけむ。
かのおほむ時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける

と人麻呂を「歌の聖」としていることが分かる。

 平安時代の歌人である藤原兼房は歌をうまく詠みたいと、日ごろから人麻呂を崇敬していた。
そんなある日のこと、兼房の夢のなかに人麻呂が現れた。
夢から覚めた兼房は、すぐさま絵師を呼んで、夢に見たこの人麻呂の姿を描かせて、毎日これを拝礼した。
そのご利益で、歌がうまくなっていったという。

 江戸時代になると人麻呂は「人丸」と書く場合が多くなり、「火止まる」や「人産まる」などとの語呂合わせから、防火、安産の神として信仰も生まれてきたのであるが、本来無関係であろう。

醒ヶ井通高辻角に残る住吉神社
 平安末期から鎌倉初期の歌人で「千載和歌集」の編者である藤原俊成はいくつかの神社を平安京に勧請している。
一つは下京区醒ヶ井通高辻角に残る住吉神社である。

1157(保元2)年、後白河天皇が和歌の神を平安京に勧請するよう俊成に命じたことがあった。

俊成は下京区松原通烏丸西入ルの自らの邸内にこれを創建したが、応仁の乱の兵火で社殿を焼失し、1568(永禄11)年に正親町(おおぎまち)天皇の勅により現在の地に遷座したとされている。

江戸時代の観光ガイドブックである「都名所図会」には住吉神社は「新住吉社(にいすみよしのやしろ)」と記載されている。
その後、再び火事で焼失したが、明治32年、冷泉為紀卿が寄付を募り現在の社殿が建立されたという。
烏丸通松原西入ルにある新玉津島神社

 もう一つは玉津島明神を勧進して創建した「新玉津島神社(にいたまつじんじゃ)」。

この神社は下京区烏丸通松原西入ルにあり、1186(文治2)年の創建であるが、住吉神社と同じく俊成の邸内に創建された。
やがて新玉津島神社も荒廃し、室町幕府初代将軍の足利尊氏が再興した経緯がある。

 俊成邸は歌人の中納言二条為明に受け継がれ、1363(貞治2)年に後光厳天皇が「新拾遺和歌集」の選定を為明に命じた頃、ここに和歌所が置かれ歌合せが催された。

その後、やはり応仁の乱により焼失したが、正親町天皇の勅により新玉津島神社も現在地に再興された。
こちらも明治の「京都名所図絵」に描かれており、住吉の松が植えられた広い境内が描かれている。

 和歌三神としての柿本人麻呂はどのように扱われただろうか。
住吉神社境内にある人丸神社

現在、住吉神社の境内に人丸神社が祀られているため和歌三神の一つとして人丸神社も俊成が勧請したと見る向きがある。

ところが江戸時代の観光ガイドブックである「拾遺都名所図会」ではこの人丸神社を人麿御霊社として記載(左写真)されている。

それによれば、「明和6年に、冷泉為村が、和歌三神のうち、新玉津島神社と住吉神社があるのに、人麿神社がないのは惜しいと、この近辺をさがした。町内で御霊祠と呼ばれていた祠が、ちょうど故地にあたるのを見つけ尊敬していた。
このことを町中が知り、社殿を修造し、祭事を改めて3月18日にした」との説明がなされている。

明和6年とは1769年のことで、江戸幕府の第十代将軍徳川家治の時代である。
冷泉為村は、藤原俊成の子孫。

これらの事実から見えてくるのは、俊成が勧請したのは玉津島神社と住吉神社だけであって、もっと突き詰めれば藤原俊成の時代には「和歌三神」という概念はなく、江戸時代には「歌の聖」と呼ばれた柿本人麻呂を含めて「和歌三神」の概念が固まっていたようだと考えられる。
和歌三神というものがいつ頃固まったかは分からないが、少なくとも平安時代にはなかったことだけは確かだろう。
(遠藤真治記)


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