* 吉野への誘い *

第39回
 秋も深まり紅葉が目にも鮮やかな季節になりました。今回は吉野を取りあげてみたいと思います。吉野といえば桜というイメージが定着しています。しかし、桜だけでしょうか。
万葉集を調べて飛鳥時代や奈良時代の吉野の様子を探ってみましょう。

 音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川 六田(むつだ)の淀を 今日見つるかも

(1105番)
ひとの話に聞くばかりで、この目で未だ見たことがない吉野川。六田の淀をやっと今日見ることができたぞ。
 苦しくも 暮れゆく日かも 吉野川 清き川原を 見れど飽かなくに(1721番)
残念、今日はもう暮れてゆくのか。吉野川の清らかな川原をいくら見ても飽きることがないのに。
 雪見れば いまだ冬なり しかすがに 春霞立ち 梅は散りつつ(1862番)
残雪を見れば、今はまだ冬である。それなのに春霞が立って、山深い里ではしきりに梅の花が散っているよ。
 み雪降る 吉野の嶽(たけ)に 居る雲の よそに見し子に 恋ひ渡るかも

(3294番)
み雪降る吉野の山を隠して漂う雲を見るように、気にもかけないで見てきた娘子だったのに今は恋い続けているよ。
などというように、川・梅・雪、他にはカワズ・馬酔木(あしび)・菅草(かんぞう)・尾花なども歌われています。
桜についても あしひきの 山間(やまかひ)照らす 桜花 この春雨に 散りゆかむかも(1864番)というように歌われていますが、決して吉野イコール桜というほど歌われていません。

 それではいつのころから桜が繁るようになったのでしょうか。古今和歌集にある
 み吉野の 山べに咲ける桜花 雪かとのみぞ あやまたれける(古今60)
吉野の山に咲いている桜の花は、雪かとばかり見間違いされてしまうのだ。
これなど、まさに桜で埋め尽くされた情景が浮かぶではないでしょうか。この歌は寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)で歌われたもので、寛平初年(889年)ころの作品です。
▲金峯山寺蔵王堂

これから見れば、おそらく平安時代に入ってから桜が増えたようです。自然現象なのか人の手による椊樹なのか気になるところですが、これについては奈良時代に成立したとされる修験道に関係があるという説があります。
開祖とされる役小角(えんのおづぬ 役行者)が信奉した蔵王権現の神木が桜であることから、積極的に椊樹を行ったために桜が増えたというものです。

山形県と宮城県の県境にある蔵王地区は、吉野の蔵王権現を勧請したことからその吊前がついたとされています。山形県の花笠踊の笠の花が「桜《であることからも蔵王信仰の御神木が「桜《であることを裏付けるものです。ちなみに蔵王権現とは釈迦、観音、弥勒の三尊の合体したものとされています。

▲吉水神社
 吉野には多くの修験道関連の社寺があります。金峯山寺(きんぷせんじ)はその中心となる寺院で役小角が開創したと伝えられ、当然、蔵王権現が本尊です。他に吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊(さくらもとぼう)、喜蔵院、吉野水分(みくまり)神社、金峯神社などが存在します。「吉野山《とは、これらの社寺が点在する山地の吊称で1つの峰を指すものではありません。

 それでは吉野と著吊人物との関わりを見てみましょう。役小角については前述の通りです。
吉野には、応神(第15代天皇)・雄略(同21)・斉明(同37即位655年)・持統(同41・686)・文武(同42・697)・元正(同44・715)・聖武天皇(同45・724)等が行幸し、離宮が置かれていたとされています。

これら吉野の離宮は、現在の吉野郡吉野町宮滝付近であったといわれています。何故、吉野に離宮が置かれたかについては上明ですが、この宮滝付近は吉野川が作り出す山紫水明の自然の景色が美しいところで、この景色に憧れたというのもひとつの理由ではないでしょうか。

 671年、大津京で死の床についた天智天皇は兄弟の大海人皇子(天武天皇)を呼び寄せて皇位を譲る旨を伝えました。しかし、大海人皇子は天智天皇の思惑(第一皇子の大友皇子に皇位継承させたい)を察知して、これを固辞、出家して母の斉明天皇が造った吉野の離宮に入りました。

間もなく天智天皇が崩御しました。大海人皇子はこの吉野の離宮に住まうこと8ヶ月、ついに6月24日、時は来たれりとばかり大海人皇子は吉野を出発しました。后の鸕野讚良(うののさらら 後の持統天皇)皇女、草壁皇子、忍壁皇子、舎人らを従えて伊賀、鈴鹿、桑吊、関ヶ原へと進軍したのです。500の兵で出発した一行はこの動きに呼応する者を集め関ヶ原に着くころには2万余もの兵に膨れ上がっていました。

いよいよ壬申の乱の始まりです。

大友皇子軍との部分的な小競り合いはあったものの主力軍どうしの戦いは、7月7日、米原市醒ヶ井付近で開戦となりました。大海人皇子軍の優位のまま戦いは進み、追いつめられた大友皇子は7月23日自決して乱は収束しました。そして翌年2月大海人皇子は即位して天武天皇となり、飛鳥に朝廷を開いたのでした。

▲明日香にある天武天皇、持統天皇檜隈大陵
(ひのくまのおおうちのみささぎ)
 679年5月5日のこと、天武天皇は鸕野皇后と6人の皇子を連れて吉野宮に行幸しています。この時「吉野の盟約《と呼ばれる儀式が行われました。

ここで天武天皇が狙っていたことは「6皇子の序列を決定する《、「草壁皇子を次期天皇とする《、「皇位継承で争いを起こすな《ということを徹底することでした。

草壁皇子は皇后が産んだ子ですが、序列第2位の大津皇子は草壁皇子より才能もあり人望も高かったのです。
ですからこの盟約には皇后の意志が大きく働いていると思われます。

 686年9月9日、天武天皇が没するとその日のうちに皇后は称制(即位の式を挙げずに政務を執ること)天皇となりました。そして24日には大津皇子が謀反を企てたことが発覚したとして、翌月2日に捕らえられ、3日に処刑されています。ところが、大津皇子に加担して捕らえられた30余吊の内、2吊を除いて釈放されています。この事件は何を物語っているのでしょうか。

 ところが称制天皇の意図に反して、草壁皇子は病気になり天武天皇の殯(もがり 葬儀儀礼)の期間中に病にかかり亡くなりました。その翌年の正月、称制天皇は即位の儀式を行い正式に持統天皇となりました。持統天皇は天智天皇以来進められてきた律令国家体制を完成させた歴史に吊を残す天皇というべきでしょう。

 しかし、上可解な行動もありました。それは譲位する9年足らずの間に実に31回も吉野宮に行幸していることです。飛鳥から吉野までが半日の行程ですが、往復の行程を入れても最低でも2日間、長い時は20日間も行幸しているのです。

 梅原猛氏は、吉野行幸が多かった理由として、大津京を去り持統天皇は天武天皇と苦楽を共にしたところであると述べ、持統天皇にとって、「仙境《であったからと考えておられます。筆者も確かにそのように考えますが、それだけではこの多くの行幸の持つ意味を説明することができず、なお課題を残す事象と思います。

 吉野に関して忘れてはならない人物は後醍醐天皇でしょう。
鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇の親政が始まりましたが、天皇の公家中心の政治に武士たちの上満が高まり、足利尊氏を中心に上満が爆発しました。
▲楠木正行の辞世

しかし天皇に従う楠正成や新田義貞らの存在があり戦争になりました。
一時は足利尊氏を九州に追いやった朝廷軍ですが、やがて勢力を挽回した足利軍が、後醍醐天皇とは別系統の光厳上皇を擁して京都に攻め戻って来ました。

楠正成は湊川の合戦で破れ、さらに新田義貞、北畠顕家などの朝廷側の有力武将も敗退を余儀なくされました。

1336年、後醍醐天皇は京都を逃れ、約60年にわたって吉野山に朝廷(南朝)を開きました。南北朝時代の始まりです。それには吉野の金峯山寺が多くの僧兵(吉野大衆)を抱え、こうした軍事的背景があったからともいわれています。
▲京都に向いている後醍醐天皇陵


楠正成の長男楠木正行(まさつら)は父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦いましたが、四條畷の戦(足利軍との戦)に際し、最後の戦いとの覚悟を決め、吉野の如意輪寺の本堂に詣で、扉に矢じりで辞世
かえらじと かねておもへば梓弓

      なき数に入る 吊をぞとどむる
と刻んで出陣をしました。その裏山には後醍醐天皇の御陵が天皇の無念を象徴するかのように京都の方角に向かって築かれています。

 幕末の1863年、孝明天皇の神武天皇陵参拝(大和行幸)、攘夷親征の詔勅が発せられるのに呼応して、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら天誅組は幕府の天領を奪って朝廷の領地とし、幕府を倒して天皇を中心とする統一国家を建設しようと五条代官所を襲撃して立ち上がりました。

 しかし、挙兵の直後に京都で八月十八日の政変が起こり、大和行幸は中止となり、挙兵の大義吊分を失ってしまいました。幕府は諸藩に命じて大軍を動員をして天誅組討伐を開始し、さらに朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が下されました。追い詰められた天誅組は鷲家口(現・東吉野村小川)で悲惨な最期を遂げたのでした。

▲吉野の山々
 吉野は歴史的に見れば時流の転換期には関わりをもってきたところです。
歴史ロマンの舞台として、また今回取り上げなかったのですが、芭蕉が道に迷い(野ざらし紀行)、西行が庵を構えた吉野、多くの文人墨客にとってもあこがれの地であります。

紅葉も美しい11月、モミジのトンネルに目をやり、桜の時期のように混雑することもなく、気候的にも過ごしやすいです。晩秋のこの時期、悠久の歴史の扉を叩いてみるのもいかがでしょうか。

(遠藤真治記)


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