− 奈良にピラミッド形の
      遺跡が!? 第24回 −



 奈良の東大寺から南に向う道と新薬師寺から西に向う道が交差する高畑町にこんもりした小山があった。盛り土の上に雑木が茂っているような形だ。奈良時代の傑僧玄ム(げんぼう)の頭部を葬った首塚であると永く信じられてきたのである。
奈良市教育委員会によると『外見は森であるが「頭塔」といい、本来方形32mの四角錐台で、7段に築かれた仏塔である。各段の四方には現在27基の石仏が残っている。石仏の高さ61〜111cmそれぞれ浮彫り、線彫りなどで如来三尊や侍者等をあらわした一群は変化に富んでいる。奈良時代の彫刻として価値の高いこれらの石仏のうち、当時確認できた13基は昭和52年6月11日重要文化財に指定された。』と解説されている。
 玄ムといえば717年、阿倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)とともに入唐留学(るがく)し、法相宗を唐の智周に学び、時の玄宗皇帝から紫衣を許されるほど重んじられた人物だ。玄ムは17年間の留学を終え、735年に5000巻の一切経や諸仏像を携えて帰国した。
そのころ日本では平城京内に流行した天然痘によって、勢力を振るっていた藤原氏四家の祖が相次いで病死し、政治の表舞台から降りていった。これに代わって政権を担当したのが橘諸兄だった。彼は玄ムを最高位の僧正に任命し、吉備真備とともに天平の新風を吹き込む役割を演じさせたのです。二人は唐で学んできた幅広い知識で、兵士・健児(こんでい)の停止、郡司の減員、国の併合等の政策を推進していった。
奈良市高畑町にある頭塔


一方、天然痘で病死した藤原式家の宇合(うまかい)の息子の藤原広嗣は大宰少弐に任じられて大宰府に左遷された。彼はこの措置は玄ム等のせいだと恨を募らせた。そして740年8月、広嗣は玄ムと吉備真備を排除することを要求して、筑紫で反乱を起こしたのである。聖武天皇はその鎮圧のために、大野東人を討伐の将として大軍を率いて九州へ向かわせ、乱はすぐに鎮圧されて広嗣は佐賀県唐津市で斬殺された。
その5年後のことである。今度は玄ムが聖武天皇の信頼を失い造観世音寺別当に任じられて大宰府に左遷された。観世音寺というのは中大兄皇子(天智天皇)が新羅遠征の途上、朝倉の橘広庭宮で崩御した母帝斉明天皇の冥福を祈るため建立しようとした寺で、80余年の歳月をかけ完成した。平安後期の歴史書「扶桑略記」によると、落慶法要の様子は「玄ム法師、太宰府観世音寺供養之日、為其導師、乗於腰輿供養之間、俄自大虚、捉捕其身、忽然失亡。後日、其首落置于興福寺唐院」とあり、玄ムを導師として行われたが、その当日空高く何者かに抓みあげられて、もと玄ムがいた奈良興福寺唐塔へ首が落ちてきたと書かれている。
人々は玄ムの死因が藤原広嗣の怨霊の仕業であると信じ、その噂話拡がっていった。玄ムは広嗣の怨霊に八つ裂きにされ、吹き飛ばされて頭部の落ちたところが頭塔のあるところとか、眉と目が落ちたのが眉目塚のある崇徳寺(奈良市大豆山町)の境内というような話もまことしやかに囁かれた。

さて、実際の頭塔については奈良文化財研究所により86年から98年までの間に発掘調査が行われ、その報告書がまとめられている。
『この頭塔は短期間のうちに全面的に築造し直されていた。最初に築造された頭塔は下層頭塔と名づけられ、一辺32m、高さ1.4mの方形基壇の3重の塔身であったと推定された。基壇、塔身ともに平面が正方形ではなく台形状で、それぞれの振れが逆方向を示す。塔身の各辺は直線ではなく屈曲する。基壇上面が水平ではなく勾配がある。このような点で、土木工事としてはずさんであった。また石積も大きな隙間があって裏込めもなく、高さも2mを越えていたから、かなり崩れやすかったと見られる。

 上層頭塔は、下層頭塔の基壇をかさ上げし、下層頭塔を芯にして一回り大きな7段の塔身を築く。高さは約8mで、全面に石積と石敷きが施されていた。
奇数壇には仏龕(ぶつがん、龕は箱の意味)が安置してあり、各面の第1段には5個、第3段には3個、第5段には2個、第7段には1個あり、東西南北4面で合計44個ある。
大宰府の観世音寺

観世音寺の傍らにある玄ムの墓

奇数壇の上面は幅が狭くて急傾斜であり、偶数壇の上面は反対に広くて傾斜も緩やかである。このことから、奇数壇上面には瓦が葺かれ、偶数壇はテラス状になって石仏に参拝できるように考慮されていたのではないかと見られる。多量の瓦が出土したが、軒瓦はすべて東大寺創建期の笵(瓦の原型)を使用した瓦であった。
なお、現在石仏の上にのっている屋根は本来あった屋根を復元したものでなくはなく、石仏を直射日光や風雨から保護するためのものである。
復元整備前の頭塔
頂上の地中深く礎石が一基出土した。心柱を据えた礎石と見られ、相輪を飾る木造瓦葺き一重塔が建っていたと推定される。したがって、上層頭塔は全体として5重の仏塔として復元される。』

(参考:独立行政法人 奈良文化財研究所
     現地説明会資料 及び現地案内板)
頭塔断面図

 東大寺要録の「実忠二十九箇条事」の記述によると頭塔が767(神護景雲元)年に東大寺の高僧、実忠和上(じっちゅうかしょう)が「土塔(どとう)」を造ったとある。この土塔が玄ムの首塚伝説と一体になって「どとう」が「ずとう」となり、「頭塔」と呼ばれるようになったことは十分推測される。
ただ、何故この土塔がこのような形式で建設されたのかが気がかりになる。平成19年1月20日にTBSで放映された「世界ふしぎ発見 謎の大伽藍・ボロブドゥール 〜ピラミッド寺院は海を越えた〜」という番組では奈良東大寺の南に、階段状のピラミッド形をした遺跡が残されていると紹介し、壁面に石仏が並べられたこの遺跡は、実はインドネシアにある世界遺産にも登録されている世界最大の仏教建造物ボロブドゥールと構造がそっくりと伝えていた。レポーターの浜島直子さんは「シルエットは確かに階段ピラミッドなんですが、細かい石の彫刻が施されているせいか、かもし出す雰囲気はカンボジアのアンコールワットに似ていると思いました。」と話していた。確かにその通りだ。
土塔のアイデアは、遣唐使がもたらした舎利塔(ストゥーパー)のイメージだろう。筆者は大陸の文化を受け入れようとする奈良時代の人々の受容性の広さだと考えている。頭塔は史跡頭塔顕彰会の仲村太寶堂表具店(0742-26-3171)様に連絡すれば200円で見学できる。仲村さんはこの番組が放送されてからは3月までは見学者で溢れたとおっしゃっていたが4月以降は以前と同じく見学に来る人も元のように疎らとなったようだ。
このような土塔は他には、大阪府堺市の大野寺土塔と岡山県熊山町の熊山遺跡に見ることができる。
ただ、ストゥーパーとしては五重塔や木造の舎利殿も既に存在しており、木造寺院建築と相俟って木造が主流となって石造りの土塔は広がらなかったのではないだろうか。



 尚、藤原広嗣は反乱軍として佐賀県唐津市の鏡山で討たれたのは前述の通りだが、地元の鏡神社に神として祀られている。その分社が頭塔の東700mのところにある。頭塔から100mほど南東の奈良教育大学のキャンパス内には吉備真備の墓と伝えられている「吉備塚」がある。
別々の場所で死んだこの三人だが、何故かこの高畑の地に吸い付けられるように集まっているのも何かの因縁を感じて極めて興味が深いものである。
鏡神社
吉備塚
(遠藤真治記)
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