琵琶湖の東南端・草津市から湖北の米原市に至る道路の中で、中山道を野洲市の行畑で分かれ、近江八幡市、安土、能登川各町を経て、彦根市の鳥居本への道をとると、再び中山道に合流する。この間の道(約40キロメートル)を地元の人達は「朝鮮人街道」と呼んでいる。この道は朝鮮国王の国書を将軍に奉呈するためソウル(京城)から江戸(東京都)に至る約2千キロメートルを往還した朝鮮通信使の歩んだ長い道のりの一端である。

(写真)江戸時代、中山道筋の野洲町行畑の朝鮮人街道との分岐点にあった道標。現在は近くの蓮照寺の境内に移建されている。
朝鮮出兵で国交悪化             

応仁の乱(一四九七)に端を発し戦国の争乱は、日本各地に群雄が割拠、互いに「下克上」(下位の者が上位の者を押しのけて威勢をふるう)を繰り返し、世間を破壊と悲惨のどん底に追込んだ暗黒の時代であった。だが天正四年(一五七六)織田信長が安土城へ入城してやっと一段落。次いで豊臣秀吉が天正十三年(一五八五)小田原征伐で天下を統一して関白、太政大臣となり、そのあと関ヶ原の戦で石田三成を亡した徳川家康が慶長八年(一六〇三)征夷大将軍となって、約一世紀ぶりに天下泰平の世を取り戻した。
 ところが秀吉は、文禄元年(一五九二)と慶長二年(一五九七)の二回にわたって朝鮮に出兵、翌慶長三年、秀吉は病死した。家康は外征の将兵を引き揚げさせたが、日朝両国の関係は悪化の一途をたどった。
  (写真)朝鮮人街道は、野洲市の祇王井川に沿って近江八幡市へと向かう。

家康国交修復に努める 政権を掌握した家康は、対馬藩主に命じ、朝鮮国王に戦時中に抑留した朝鮮兵の送還を条件に、とにかく訪日していただきたいと伝えさせた。この結果、慶長十二年(一六〇七)日朝両国友好の証かしとして、朝鮮から第一回目の通信使四百六十七人が江戸城を訪れた。この会議で、はじめの三回は「回答兼刷還使」といい「回答」は、家康の朝鮮国王の国書に対する回答であり、「刷還」は、日本に連行された約六千人にのぼる捕虜の送還方法であった。
 この「回答刷還」に関する訪日は、第二回・元和三年(一六一七)第三回・寛永元年(一六二四)に実施され、捕虜の送還は終わった。第四回・寛永十三年(一六三六)から第十二回・文化八年(一八一一)までは朝鮮通信使と名称を変え、将軍の代替わりごとに約一年をかけて各地で親善友好のイベントが繰り広げられた。

通信使の足どりと編成  四回目以降の通信使は、外交使節であり、文化使節でもあった。三使(上使、副使、従事官)のほかに、優れた学者、文人、書家、医師、技術者なども選ばれており、使節団は約五百人、それに幕府の付け人も入れると総勢約千人にのぼった。

 一行はソウル(京城)を出発、釜山から船で対馬ー赤間関(下関)ー瀬戸内海を航行、大阪からは幕府の御座船に乗り替えて浅い淀川を溯(そ)行、京都の淀で下船した。このあとは徒歩名古屋を経て東海道筋を江戸まで、見ず知らずの遠い道のりであった。淀から江戸に至る約五百キロメートルは、行列の先頭に「清道」と大書した大きな旗をはためかせ、笛や太鼓、ラッパなどを奏でながらにぎやかにねり歩いた。

 江戸に着いた通信使一行の最大の使命は、朝鮮国王の国書を徳川将軍に奉呈する伝命の儀で、江戸城入りしたときは江戸中がわき返ったといわれる。伝命の儀は、まず贈り物の進呈から始まった。朝鮮側からは人参や虎皮などが贈られ、日本側からは金屏風や絵画、刀剣が多かった。国書交換の後、江戸城中でイベントが行われ、一番人気のあったのは曲馬の芸「馬上才」(※)であったという。

 通信使の江戸滞在は、二十日から一か月近くに及んだがこの間、日朝の文人、学者たちの筆談、詩の唱酬や技術者同士の話し合いなどが行われた。このことは、江戸だけに限らず途中の宿泊地や休憩所でも繰り広げられ、日本の文化向上に大きな役割を果たした。中でも外国人と出会う機会の少ない沿道各地の民衆は、この文化使節から様々なものを学んだ。行列をまねてや太鼓やラッパをつくり、吹奏しながら踊りを楽しんだりもした。また通信使行列の浮世絵版画、絵本、絵巻も刊行され、全国に広がった。さらに土人形をはじめ全国各地の人形の中にも通信使を形どったものが出回った。


熱狂ぶりの反面 幕府をはじめ各藩、それに大衆も加わった国をあげての歓迎は、通信使の人々を喜ばせただけではなく、日朝間の国交修復にも大いに役立った。ところがこの大行列を迎えるための道路の整備や架橋の修理その他さまざまの準備と後始末などに前後一年もかかり、費用は約百万両ともいわれ、これを支えた各藩、街道筋や宿泊地の人々の苦労と経費は大変なもののようだった。
 しかし、通信使の送られてきた徳川の世が、歴史上で日本と朝鮮が最良の関係にあったことは確かであったし、秀吉の時代を除いて約二世紀の長きにわたって隣国同士に平和が存在したことは特筆されるべきことであった。

吉礼(きちれい)の道 朝鮮人街道は現在、近江では、下街道(中山道の上の道に対して)浜街道、京街道とも呼ばれ、いまひとつ吉礼の道ともいわれる。これは徳川家康が関ヶ原の戦で大勝利し、大阪城から江戸へ帰還の途中、彦根を過ぎて佐和山城(石田三成の城)に差しかかったとき、激戦当時の思いがこみ上げ、頭の中に浮かんだのが吉礼の道(めでたい例しの道)だった。以来、この道は、将軍の上洛街道、御所街道と呼ばれる格式の高い道とした。特に朝鮮通信使の通行に使ったのは、善隣友好外交を大切にし、将軍就任慶賀をより一層権威あるものにするためだった。家光の時代からは各藩主の参勤交代時代にもこの道は使わせなかったという。

また野洲から米原の鳥居本までの中山道を通らず、やや遠回りになる朝鮮人街道を選んだのは、通信使一行を丁重にもてなしの出来る宿泊、休憩施設を八幡、彦根で選びたかったという理由もあった。

通信使の昼食休憩場所 25日
一行が休憩した八幡の浄土真宗本願寺派別院は、昼食所本陣と定められていた。三使(上使、副使、従事官)学者、文人、書家、医師、技師など上官クラスは本堂、中官クラスは浄土宗寺院「正栄寺」下官、お供の方は京街道道筋の町家が提供された。
 別院の調べによると宝暦十四年正月(一七六四)に来朝した通信使一行の接待の古記録や市が発行した「八幡山の宴」によると献立にはカラスミ、鮒ずし、あわびなどの高級食材がふんだんに使われていたほか、日本古窯の一つである信楽焼一式の食器(白磁に似たもの)が準備されていたことが判った。

 (写真) 通信使一行が昼食休憩した近江八幡市の同街道筋にある本願寺八幡別院の本堂


彦根の宿泊施設                     指定されたのは、彦根城下町の中心にある浄土宗・宗安寺。寺城は約三千坪(九千九百平方メートル)の大寺である。最近、この寺から「宝暦十三末年 朝鮮御馳走御用御入用作事方仕様帳」という冊子がみつかった。この仕様帳は、明和元年(一七六四)に来日する通信使一行の彦根宿泊準備のため、前回の寛延元年(一七四八)彦根宿泊時に行われた家屋造営修理の仕方やその見積を宝暦十三年に記したのもであることが判った。

(写真) 一行の宿泊所となった彦根市城下町の浄土宗・宗安寺(中央の大きい門が赤門で左側の小さい門が黒門(高麗門ともいう)

 この仕様帳で、正使の間には、長さ三尺五寸(約四十五センチ)横三尺(約一メートル)高さ七寸(約二十センチ)の書簡台が設けられ、その上に朝鮮国王の国書が置かれ、部屋の近くに国書を乗せて運ぶ輿(こし)の置所が設置されていたことも判った。またこの仕様書から寛延元年(一七四八)の宿泊準備にかかった費用は七十九貫八百七十六匁四分、これを両に直すと約千三百三十一両。(これには当日の食費、調度品代などは含まれていない)それに大阪から江戸まで一行の往復費用を入れると百万両はかかったといわれている。これらの費用は各藩の大名が受け持ったのであるが、それは結局その藩の領民に対する課税となって農民生活に大きな影響を与えるようになっていったようだ。
いまひとつこの寺には、通信使が宿泊した関係で表門が二つもある。一つは赤門といい、建てもの自体が赤色。普通一般の人々が参拝出来る門だが、赤門から左に十メートルほど離れたところに高さ三・五メートル余の黒門(高麗門ともいう)と呼ぶ小さな門がある。ここは通信使の食材、主として肉類などを搬入するため、特別に建てたもので一般の出入りは禁止されていた。
ここで一泊した一行は、江戸に向かうものは鳥居本から右折して中山道へ、大阪へ向かう一行は八幡の昼食本陣へ向かった。


(写真)「右 彦根道 左 中山道」と刻まれた鳥居本の道標(彦根市)は、朝鮮人街道が中山道と合流する最後の地点に建つ貴重な石造道標である
※馬上才 馬上才とは、朝鮮時代の武芸二十四般の一種。馬上での銃発射、馬腹に繋がれての早駆け、馬の後部に伏せての早駆け、馬上に逆立ちしての早駆け、馬上に寝ての早駆け、互腹に逆さにぶら下っての早賭け、馬二頭に立ったままの早駆けなど曲芸であり、武芸でもある。この時代には日本にはなかった。
参考図書
@朝鮮人街道「中近世古道調査報告書」(滋賀県教育委員会発行)第二章朝鮮通信使と朝鮮人街道(木村至宏著)

A彦根東高校新聞部による消えた道探して朝鮮人街道をゆく」(門脇正人著)

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