-多羅尾代官所(下)-
一豊一家の悲劇 長浜城主となり、待望の大名に列した一豊一家が喜びにあふれていた天正13年(1585)11月29日、大地震が長浜地方を襲った。一豊は、たまたま京都へ出張中で、最愛の一粒種、当時六才の與禰(よね)姫は乳母と共に梁の下で、家臣も乾彦作以下十人が圧死した。幸い千代夫人は脱出して助かったが、半狂乱の悲嘆にくれた。むこ養子の心づもりも消え失せた一豊夫妻はこの難を機に、法華宗から禅宗へと没入、心の再興をはかった。
 これに追い打ちをかけるように、翌天正14年7月17日には、一豊の生母・梶原が亡くなった。一豊夫人には裁縫の師に当たり、一豊との縁組みのきっかけにもなった母だった。その墓は、長浜市南部・宇賀野の地に営まれ、現在立派な墓が残っている。

秀吉の天下統一成る 秀吉は天正18年(1590)3月、全国統一への最後の戦といわれた北条討伐の大軍を東下させた。一豊も弟・康豊と共に秀次の指揮下に入り、同月29日には、箱根山西側山腹の山中越を猛攻、四か月後の7月5日やっと攻略した。13日には秀吉が入城、論功行賞が行われ、数多くの国替えが行われた。
 筆頭は家康で、関八州が与えられたほか近江、伊勢も手にした。家康の跡地・遠江、駿河、甲斐、信濃、三河の五か国は、ひとまず織田信雄に充てる予定だったが、信雄が旧領にこだわったため、秀次騎下の諸将が東海道筋に封じられた。一豊はその一環として掛川を受封、秀次は信男の故地・尾張と北伊勢をもらい清州城に移った。


掛川での一豊の任務と治績 掛川受封の発令は、天正18年(1590)9月20日、禄高五万石、掛川城に入り、周知郡一宮付近の代官も命ぜられた。
 掛川は、秀吉の居城・大阪と、家康が移封された関東(のちの江戸)のほぼ中央。城下は東に大井川、西の天竜川に挟まれ、南は御前崎が遠州灘につき出し、北は南アルプスの南麓が迫る東海道の要衝。橿原の時代から素我の国として開け、大和武尊の東征の折、草薙の剣を使われた焼津の原にも近い。
 この地に城が築かれたのは、文明の頃朝比奈泰熙の手によるもので、それ以来、東西勢力の戦の場となり、永禄11年(1568)には武田信玄に静岡を追われた今川氏真が、この城の朝比奈泰朝に身を寄せた所を家康に攻められ、翌12年5月、城を出て船で小田原の北条氏へ落ちて行き、滅亡した。城は家康の部下・石川家成に預けられたが小田原役後、家康の移封について関東に移り、その後に一豊が入ったというわけ。掛川城に入った一豊の主たる任務は、家康を中心とした東国勢を仮想敵国としてこれに対する武備を整えることにあった。
 以下は掛川時代の一豊の主な治績、経歴を拾ってみた。
@城下を流れる神代地川など三河川を天然の堀と見立て、龍頭山など三山の地形を取り込んだ近代城郭の中に、天正18八年(1590)、二階建てに望楼を乗せた天守閣を初めて築いた。
A侍町、町人町を区分けし、江戸時代の掛川町の街区十三区の基礎固めをした。
B入城以来、総検地を行い文禄3年(1594)完成した。この時の検地帳が伝えられ、当時の掛川の自然村がよく判り、貴重な史料となっている。
C天然寺、慶雲寺に寺領や屋敷を寄進したり、真如寺や円満寺の建立、永江院の修復のほか龍尾神社を現在地に遷座するなど大いに寺社文化を振興した。
D一豊は、秀吉、秀次、家康が掛川を通過する度に、盛大な接待を行い、飛脚を二十人用意し、豊臣、徳川双方の情報用達に役立てた。
E大井川尻で、秀吉の朝鮮征伐用の軍用船(長さ十八間、幅六間)を建造した。
F秀次の補佐役を勤め、関白秀次自殺後、その欠所八千石を加増され、最終的に掛川六万石の城主となった。

天下は秀吉から家康へ 秀吉が全国統一し、一豊を掛川城へ転封した頃の秀吉は、勢力絶頂であったが、文禄元年(1592)朝鮮出兵の頃から衰えが目立ち、更に淀君に実子・秀頼が生まれると、後継者に求めた関白・秀次をうとんじ始め、終には高野山に追いやり切腹させた。補佐役の一豊もとばっちりを受け、一時秀吉の怒りにふれ、朝鮮行きを命ぜられたりしたが、なんとか難儀を免れた。しかし慶長3年(1598)秀吉が、6才の秀頼と豊臣家の将来を気づかいながら死ぬと、天下の形勢は一挙に家康へと傾いていった。

家康の上杉征伐と一豊 上杉景勝は慶長4年(1599)正月、大老として家康弾劾に連署するが、2月5日和解の誓約書を交した。次いで同年3月3日、前田利家が死ぬと8月3日、景勝は領国経営を理由に帰国した。帰国直後、直ちに領国の諸城塞を修築し、武器弾薬を集積、浪人を召し抱え、道路、橋を構築するなど軍事色に充ちた開発を急ピッチで始めた。この状況が角館へ帰国途中の藩主・戸沢政盛や景勝の旧領・越後に封ぜられた堀秀治からも家康の元に報告された。
 家康は早速、上杉家の正月の祝賀使臣・藤田信吾に、景勝の上阪を求めるが景勝は応ぜず、藤田は出奔して家康に投じた。慶長5年(1600)4月1日、家康はもう一度、家臣河村長門を詰問使として上阪求めたが、上杉藩の回答は拒否だった。家康は三中老らの反対を排して出兵を議定、諸侯に会津出兵を命じ、自らも6月16日大阪城を出発、東征の途についた。一豊は7月3日、家康の後を追って掛川城を進発、途中家康の指示で小山に向かい、24日には諸川に陣を張った。
 家康は、上杉軍との戦いと、西軍挙兵のタイミングを考え、しかも通過地点の大名への勧誘状をしたためながらゆっくりと歩を進め、24日には小山着、同夜、翌日の諸侯会議を召集した。三成の西軍挙兵は益田長盛の内通によって、19日に知らされていた。

小山会議と一豊夫人 家康は三成の挙兵に関しては予期できたが、自分の諸将については、その妻子の多くが大阪城で西軍に抑えられているので、どれだけの味方が得られるかの不安が心を痛めていた。家康は二十五日、小山(栃木県南部)の陣に諸将を集めて大勢を決するが、その前夜、諸川の一豊の陣に、大阪の千代夫人からの密書が届いた。一豊は先ず笠のひもに縫い込まれていた八行の伝言を読み取り、密書は封印したまま家康の陣所に届けた。
 書状には、夫人の筆で三成挙兵後の大阪城内の模様や、一豊に徳川加担を勧める千代の覚悟や城中諸将の動向などが記されていた。家康はこの書状を読んで大いに感動、すぐに一豊を呼び寄せ、今後の作戦を話し合うと同時に、会議の段取りを相談した。

一豊は城の明け渡しを宣言 25日の会議で家康は、西軍挙兵の情報を伝えるとともに、妻子が人質の状況下にある豊臣恩顧の大名に、帰郷して西軍に投じてもよい。と述べた。この時、親豊臣の大物・福島正則は、真っ先に発言し「西軍の蜂起は、秀頼らの真意とは思われず、三成一派の策動である。自分は東軍を正当とみて三成一派を討滅する」と述べた。
 続いて一豊は「自分も同じ意見で東軍に加担するが、このためには掛川の城を献納し、人質においの康豊を差し出す」と発言した。これによって全員が東軍加担に決定、東海道筋の大名は、すべてが城を献納することで一致した。
 これで東海道を西進する東軍をさえぎる“敵”はなくなり、8月10日〜14日までに清州城に集合することで一致、一豊など先遣隊は8月28日に先行、家康など本隊は9月1日江戸を出発、作戦開始を9月15日、場所を関ヶ原と決めた。別動隊の秀忠軍は、8月24日、宇都宮を出発、中山道を進み、途中・上田城の真田氏にさえぎられて決戦には間に合わなかった。
 関ヶ原の決戦は、慶長5年(1600)9月15日午前8時から始まったが午後2時ごろ、松尾山上に陣を構えていた小早川秀秋の陣営に、家康からの銃弾が撃ち込まれたのを合図に、秀秋は突如寝返って三成軍を攻撃したため西軍は総崩れとなって敗退、石田三成、小西行長などは捕まって処刑され、これによって政権交替が明白となった。

一豊・土佐の城主に 家康は、30日大阪城で関ヶ原合戦までの賞罰と領国再配置を行い、一豊は土佐二十四万石、破格の大名に栄進した。掛川城を正式に明け渡した一豊は、12月末、大阪を出港、慶長6年(1601)1月2日、土佐の東端・甲の浦港に着き、8日には浦戸城に入った。3月には国内視察、8月には重臣を国内要所に配置し、領地を与えた。一豊も新しい城を、現在の城の位置に決めて築城、慶長8年(1603)8月21日、高知城と命名、浦戸城から移り、花やかな入城式が行われた。一豊にとっては生涯最良の日であったと思われる。

一豊 千代夫人没す 慶長10年(1605)4月、婚儀を終えた世子康豊(後の忠義)は、7月1日従五位・対馬守に任ぜられほっとした9月20日、一豊は脳卒中で倒れ、帰らぬ人となった。(61才)
 千代夫人は、翌年2月7日、高知を去って京都・伏見に住み、剃髪して尼となり、閑居を続けていたが、元和3年(1617)の秋、病にかかり、二代藩主・忠義は、夫人を実母と思い、6月から三か月看病、一たん高知に帰国した。しかし病気は再発、忠義は家老の山内備後などを上京させ看病につとめさせたが、12月4日静かに、その生涯を終えた。時に年61歳、奇しくも夫君一豊と同年だった。

参考図書:∇山内豊秋氏(故人)著 掛川から土佐へ −山内藩の移封とその前後− ∇掛川教育委員会発行 掛川城のすべて

(曽我一夫記)
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