-多羅尾代官所(下)-
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 豊臣秀次とお万の方
 秀吉の姉「とも」の長男で、豊臣家の世継ぎになっていた関白大政大臣秀次が、近江国の大守(国守大名のこと)になって八幡城(現在の近江八幡市)にいた天正15年-17年ごろ(1587-1589)秀次が近江各国視察の途次、多羅尾城に立ち寄り、光俊一族から丁重なもてなしを受けた。食事の時、離れ座敷から美しい琴の調べがするので秀次が「誰が弾いているのか。」と尋ねた。光俊は「私の孫娘の万でございます。」と答え、秀次の求めに応じて酒の酌をした。八幡城に帰った秀次は万が忘れられず、再三、光俊に万をもらい受けたいと頼み込んだ。光俊は父親の光太と相談、万の気持ちも聞いた上で、秀次のもとに差し出した。

 秀次に切腹を下命
 秀吉は、朝鮮出兵の際には、秀次を京都の聚楽第に住まわせて留守居役を命じ、国内の政治にも当たらせた。ところが秀次は、関白に任官すると間もなく、それまで温厚だった言動が次第に穏当さを欠き、残虐な行為がつのり、殺生関白 のあだ名さえつけられた。ひとつには政治の実権はあいかわらず秀吉とその腹心の大名がにぎり、秀次の任務は朝廷との交渉や社寺、町方の訴訟裁判ぐらいで、関白の職は飾り物に過ぎなかったのが不満だった。それに加えて秀吉と淀君の間に秀頼が生まれ、秀吉が可愛がるのを見るにつけても自分の地位に不安を深めるようになったのが原因のようだ。
 それに加えて、秀次が朝廷に多大の銀子を献上したとか、ひそかに大阪城に忍びの者を入れ、家臣に五百丁、千丁の鉄砲を持たせて夜襲を計画しているなど、さまざまな流言飛語が飛び交い、なかには秀次の謀反だと秀吉にまことらしく説きつける者も出た。秀吉の側近、石田三成もそのうちの一人だったという。秀吉もはじめはまともに受け止めてはいなかったようだが、朝鮮出兵がはかばかしくないのと、大名間の対立がはっきりしてくるのが不安の種だった。
 そこで文禄4年(1595)7月、秀次を高野山に追放し、さらに追いかけて切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらした。さらに翌8月2日には、秀次の四人の若君と一人の姫君、それに側室として仕えていたお万の方を含む34人、計39人を秀次のさらし首の前に引き立て、全員を処刑した。
 処刑の前、お万の方は「いづくとも 知らぬ暗路をまよう身を 導きたまえ 南無阿弥陀仏」という辞世の歌を残している。
 それから16年後の慶長16年(1611)高瀬川開発のためこの地にやってきた角倉了以は、荒廃していた墓域を整理するとともに永久に菩提を弔うためこの地に瑞泉寺を建立した。現在の墓碑は、昭和17年、財団法人豊公会の発起で、39人と、秀次に殉じて自刃した家臣10人、計49基の五輪塔が秀次の墓石を取り囲み、寄り添うように建てられた。瑞泉寺は・・・
 京都市中京区木屋町三条下ル石屋町114番地  
 住職 中川龍晃  
 tel 075-221-5741
 秀俊一族も浪人
 光俊をはじめ多羅尾一族は、秀次と関係があったという理由で、信楽本領はもちろん、八万石余の領地を没収された。光俊ら一族は、伊賀国に逃れ、かくれ住んで苦しい生活を強いられた。
 家康の天下となる
 秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、朝鮮出兵が終結せぬまま62歳で死んだ。家康は、秀吉の遺言によって、秀吉の重臣と豊臣家の今後のことを相談するため大阪城に来た。その時、家康は伊賀越えの難の折、世話になった多羅尾光俊のその後の様子を調べさせたところ、伊賀国に住んで生活にも困っていることを知った。
 家康は早速、光俊をはじめ一族の者を信楽に呼び戻し、当座の手当てとしてニ百人扶持(ぶち)(一人扶持は一日五合の米に相当)を与え、光太を徳川家の旗本として取り立てた。光太は関東・上杉討伐に参戦、関が原の合戦にも出陣して大きな手柄をたてた。家康は光太の功績をたたえ、多羅尾家代々の領地であった信楽七千石余を与え、弟の光定、山口藤左衛門なども旗本に取り立てた。また光俊には隠居料として小川の八百石を与え、むかし世話になった恩に報いた。
 光俊は、小川城が秀吉によって壊されたので大光寺に住んで僧となり、名を道賀と改め、近衛家と多羅尾家の先祖の菩提を弔い、慶長14年(1609)2月4日、96歳の長寿を全うした。光太は多羅尾城に、光定は神山に館を建て、それぞれの知行所や幕府領を治めた。

 多羅尾代官所の設立
 寛永15年(1638)江戸幕府は、多羅尾家十六代光好を江戸城に呼び出し代官に任命、信楽・多羅尾村にある光好の屋敷内に代官信楽御陣屋という近畿地方の天領を治める役所を設けさせた。この陣屋は一般に多羅尾代官所とか天領信楽御役所と呼び、村の人々は御屋敷と呼んでいた。これが明治まで続いた多羅尾代官所の始まりで、光好は近江国、播磨国(一部)の天領の内五万石も治めることになった。
 代官所が出来て光俊、光太、光好の代にかけて多羅尾家の家来であった人達のうち、文書の読み書きの出来る人、耕地の測量や河川、道路工事の技術を持つ人は幕府の役人となり、代わりに幕府の事情や法律、規則に詳しい役人が派遣されてきた。

 代官所の組織と業務
 江戸幕府の組織では、現在の財務、法務、総務省を合わせた勘定所が幕府直轄地(天領)を監督、代官所へのすべての命令、指示をし、代官所からの申請や報告、年貢米の納入はすべて勘定所に提出させていた。このため江戸に詰め所を置き、これを江戸家敷といい、主任を江戸家老、その下に10人の手代がいた。江戸家敷は、代官が江戸に出た時の宿舎でもあり、代官の格が上がるに従って、三度変わった。文化、文政の頃からは土手際四番町に屋敷が設けられ、明治まで続いた。
 陣屋には、公事(くじ)方と納戸(なんど)の二部があり、それぞれの主任を元締めといい、その下に15人ずつの手代がいた。公事方は、いまの警察と裁判所を兼ね、納戸方は年貢米の取り立てと田畑の開拓や河港の管理などにたずさわった。

 多羅尾の文化


 多羅尾代官所は、江戸に屋敷を持ち、伊勢国四日市に出張陣屋が、また支配地が山城(京都)河内(大阪)など大都市周辺にあったので、文化の高い都市の人達の出入りが多かった。それとこれらの地方からの書物、各種の道具類、書画などが入る一方、学者や歌人、学問のある僧侶など文化人が数多く訪れ、代官所からも学者、画家、歌人、俳人などを輩出した。その主な人達を時代順に表にしてみた。
▼寛永年間(1640)小堀遠洲 大名、造園家、茶人(二代目代官光忠の実父)
▼元禄年間(1702)京都直指庵二世 禅僧・道徴月潭 (多羅尾十ニ景漢詩の作者)
▼文化・文政年間(1804−1829)本居大平 本居宣長の継子・国学者(七代々官氏純の師)加茂直兄 伊勢山田の国学者・歌人(再三来訪)
▼天保・慶應年間(1802−1867)本居内遠 本居家三代目、国学者、歌人 佐々木弘綱 伊勢、石薬師の国学者(歌人・文学博士佐々木信綱の父)萩原広道 備前岡山の国学、漢学者 澤渡精斎 京都漢学者、画家、書家 そのほか多羅尾家臣 藤尾景秀(国学者)多羅尾一秀(家臣、俳人)辻楓下(俳人、茶人)杉原豊蔵(国学者)松田勝子(女子教育者)狂歌堂真顔(江戸の文学者、狂歌師)

 日本一代官所の結末
 慶應3年(1867)10月14日、十五代将軍徳川慶喜は大政を奉還、同時に全国の代官所の整理と撤去を命じた。多羅尾でも住民の説得と治安維持に留意しながら代官所24棟の撤収と整理に入った。中でも九代、226年に亘って代官所に集積された秘密、重要文書類の焼却には長い間、村全体に煙がただよい、村民の不安感をつのらせたという。
 多羅尾は、山間僻地の代官所ながら歴代五-六万石の石高を有し、中でも八代目代官純門(ひろかど)は、一挙に十万石に延ばし、全国四十ニ代官中首席となり、代官ではなかなか得られない布衣(ほてい)という最高の位についた。どうしてこんな業績が得られたのか。それには次のような理由が考えられる。
一 戦国時代、徳川家康が伊賀越えの難にあった時(上巻に記載)多羅尾光俊が助けたことに深く感謝されていた。
一 天下にニ、三例しかない代々代官(世襲代官)に任ぜられた。
一 多羅尾氏が朝廷と関係深い近衛家の親類という名門だった。
一 多羅尾地区は近江、山城、伊賀、大和の国境にあって政治、軍事上の要衝であった。

参考図書 
・多羅尾の歴史物語 多羅尾郷土史研究会偏発行 杉原信一著 
・甲賀史 上、中、下 
・家康と伊賀越えの危難 川崎記孝著 日本図書刊行会発行
(曽我一夫記)
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