-大角家和中散本舗(重要文化財)を訪ねて-
 近年、全国各地に公立の博物館や研修所などが誕生し、建物も豪華で内容もユニークなものが多い。
 滋賀県は、太古より大陸との交流ポイントとなっていたところもあり、県下各地域それぞれに政治・経済各方面で影響を受けており、琵琶湖を中心として、湖東、湖南、湖西、湖北、それぞれ独特の文化が生まれた。
 今回は、栗東歴史民族博物館についてご紹介する。
 縄文時代の遺跡
 栗東歴史民族博物館の第一展示室には、栗東の「あけぼの」が縄文湖であることを裏付ける縄文土器(破片)が発見されたが、これらの土器破片ともに、稲作の始まりを知る炭化米、弥生土器各種が展示されている。
 市内安養寺の新開古墳からは盤竜鏡、三角縁三神三獣鏡や須恵器のほか、栗東でしか発掘されていない船形埴輪が発見されている(写真左)。これは琵琶湖で頻繁に航行していた船舶と住民達の糧としての漁業を表現したものと思われる。

 里内文庫コレクション
 第二展示室に里内文庫コレクションが特別陳列されている。
 これは明治41年(1908年)栗太郡手原(旧栗東町)で呉服商を営んでいた里内勝治郎さん(昭和31年82歳で没)が開設した私立図書館であった。
 資産家であると同時に研究熱心な里内さんは、郷土の農業歴史を調査するかたわら、法律から化学(農薬)に至るまで幅広く研究されており、その結果をまとめた資料館でもあった。
当時の人々はこの資料館を「村の図書館」と呼び多くの人達が活用したという。
 明治37年日露戦争当時、日本軍は旅順港に碇泊していたロシアの極東海軍を港内に封鎖し、広瀬中佐を隊長に旧軍艦船舶に石を積んで搬送、港口で船もろとも沈没させた。広瀬中佐は戦死したが、この作戦が後に始まった日本海大海戦を勝利に導いた。
 戦後この話を耳にした里内さんは船をチャーターして旅順港におもむき沈んでいる艦船から石を引き揚げて持ち帰ったというエピソードの持主で、その石(直径約15センチ)が博物館に残されている。

 狛坂磨崖仏


 最後になったが、博物館の玄関を入ったホールの南端にガラス戸で仕切った野外に高さ7メートル、横4メートル、幅1.5メートルの磨崖仏(写真右)が安置されている。
 聞けば1200年前、金勝山で刻まれた「狛坂磨崖仏」を複製したもの。しかし、かなり年月が経っているためか彫刻が磨滅して本尊が釈迦牟尼仏か、阿弥陀如来か、弥動菩薩かがはっきりしていない。
 金勝寺の開基は、奈良東大寺の初代管長だった良弁僧正で、この民博には金勝寺四天王立像、大通寺広目天立像など国、県指定の重要文化財などが展示されている。
 これはまさに、この場所が、湖東から湖南にかけての仏教圏の中心的情報発信基地であることを物語るものであり、それを証明するのが当館のシンボルといもいえる狛坂磨崖仏といえそうだ。
 (来館者は年間1300人、平成13年度内7割が県内、3割が県外)
● 栗東歴史民族博物館 館 長:佐々木 進氏
  所在地:滋賀県栗東市小野223-3
  TEL:077-554-2733  FAX:077-544-2755
  
 滋賀県栗東市は平成13年10月1日、県下8番目の市(人口57615人平成14年6月現在)として誕生した。位置は名神高速道路栗東インターチェンジに近く、競馬ファンならずとも日本中央競馬会栗東トレーニングセンターの所在地とあって一躍有名になったところである。
 この民博は、市制が敷かれるまで滋賀県栗東町が収集した約二万点の歴史資料を保存するため平成2年、7600平方メートルの敷地に建設された。延2935平方メートルの博物館(二階建)には、栗東の歴史と民族資料を常設展示する第一展示室と常設展示の内容をより充実させるための、第二展示室を設置した。そこではさまざまな企画やテーマ展を開催することによって、第一・第二展示室の機能を両立させ、来館者により幅広く理解してもらおうと工夫されているのが特色。
私ども日本メディカルライティング研究会は、医薬関係の翻訳にたずさわっていますが今回、研究会システムをリニューアルするのを機会にこれらの施設を訪ね、滋賀の歴史と自然を皆様にご紹介してみたいと思っています。
題して・・ぶらり近江のみち・・ご一読いただければ幸甚です。
(曽我一夫記)
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