第8回  − アーネスト・F・フェノロサと法明院 -  METRO No.134    
大津市園城寺町246 滋野敬淳住職 077-522-0680
 大津市三井寺・天台宗園城寺の北端に法明院という塔頭がある。この寺は、境内の桜や紅葉など四季の美と庭園から眺める琵琶湖や正面の近江富士さらには北方向に伊吹山、比良山などがワイドで望める湖岸でも名高い“眺望の舞台”である。

 いまひとつこの寺には、明治の始め、日本に吹き荒れた廃払毀釈の嵐によって日本の貴重な文化財が反古同然となっていくのを憂え、当時、東京帝国大学の哲学教師のかたわら日本各地の仏寺を調べ、奈良・法隆寺夢殿の門扉を開けさせ、白布に包まれ廃棄寸前にあった秘仏・救世観音を発見するなど明治政府に文化財保護の必要性と保存への法律の制定などを訴え続け、そうして実らせた日本美術の恩人・アーネスト・フランシスコ・フェノロサが眠るお墓があることで有名
★フェノロサの来日★ 
 明治11年8月9日、東京帝国大学へ招かれたフェノロサは、哲学のほか政治、経済、社会学などを担当した。ハーバード大学を卒業後、しばらくボストン美術館付属絵画学校に籍を置き、美術教育家の道を模索していたこともあって、日本美術には特別の関心を寄せていた。

 来日当初駿河台に住んでいたフェノロサは、上野や浅草の道具屋で買い求めた物品の中にニセ物をつかませられることもあったが、古物学者や文部省博物局の職員、大学の同僚狩野友信らの優れた鑑識家たちの友情に支えられ、鑑識家としての実力を養い、明治17年(1884)10月には狩野永探理信の名号を授与され、正式の鑑定状を発行出来る資格を与えられた。

相次ぐ美術品の流出
 明治維新は文化財の運命に対して危機的な混乱を引き起こした。慶応4年(1868)新政府は、徳川300年以来守られてきた神仏集合の令を改正して神仏判然の令を発令した。つまり神仏集合というあいまいなものから神道、仏教の本旨を明確にさせるという法律で、これが拡大解釈されて廃仏毀釈という暴挙へエスカレートしていった。

 この傾向は東京だけでなく、全国に波及、有名寺院の破壊や仏像、仏画、経巻類が焼却されて野天に放置された。また新政府は、旧幕時代に諸外国と締結した不平等条約を改正するため欧米の諸国に、日本が文明開化の近代国家だと印象づけるため国民に大いに洋風を取り入れるよう奨励したことが西洋崇拝、旧物軽視の風潮を生み、伝統的文化財の破壊、遺失、流出への危機を一層助長することになった。

 関西では奈良・興福寺の五重の塔が10円で売り出された。この値段は、万一売れない場合、塔を焼却して残った金具代だけでもということで最初から焼却するのが目的のようだった。

夢殿の救世観音像を発見
 明治17年、文部省図画調査委員に任命されたフェノロサは、同年8月、通訳の文部省調査委員岡倉覚三氏(のちの天心)と友人の医学博士ビゲローと三人で法隆寺を訪ね、5日間にわたって同寺の什宝調査を行った。中でも夢殿の開扉については、仏罰で地震が起き、寺はつぶれてしまうといって開けようとはしなかった。
フェノロサ、岡倉氏らが、同寺の千早定朝住職を長時間、口説きやっとのことで開扉した。 

 錆びた鍵が鍵穴に入り、カチンと鍵のあいた音を聞いたフェノロサは思わず喜びの声をあげたという。厨子の中からは木綿の白布約500ヤード(約450メートル)にぐるぐる巻きにされた等身大の仏像が見つかった。何百年か経っていたため、布にたまった厚いほこりがたちのぼったうえ、とっさの出来事で中に入っていたネズミやヘビがあわてて飛び出し、委員らはがく然としたと調査書に記されていたというが、いずれにしてもフェノロサらの手によって救世観音は無事発見され、現存することになった。
フェノロサら法明院で受戒
 フェノロサやビゲローは、関西出張の節には、法明院に立ち寄り、第9代目住職・桜井敬徳阿闍利の教えを受ける一方、同院の茶室・時雨亭で寝起きをし、客殿で訪れる人々をもてなしていた。夢殿の調査を終えた頃から岡倉(のちの天心)は、フェノロサ、ビゲローに受戒をすすめ、阿闍利へも懇請していたのが実り、明治18年9月21日、法明院で阿闍利に得度を受け、フェノロサは「諦信」ビゲローは「月心」の法号を授かった。
 阿闍利は、天保5年(1834)9月、尾張国知多郡西河野村に生まれ、10歳で出家、文久元年(1861)師の敬彦大和上の跡を継いで同院の9代住職となった。明治5年(1872)教務省教導職を命ぜられて国内各地を伝導、同13年(1880)11月、伝導灌頂を受けて阿闍利となる。それから3年後、阿闍利は当時、農商務省博物館長だった町田久世氏に、東大寺戒壇で大戒を授けた。当時各新聞は「天台宗祖・伝教大師でさえ比叡山に一乗戒壇を建立出来なかったのに東大寺の戒壇で大戒を授けるとは異彩」と賞賛したことによって敬徳阿闍利の名声が全国に知れ渡ったという。
阿闍利の死
 明治18年10月、フェノロサ、岡倉は文部省の命で欧米の美術事情視察の旅に、ビゲローも4年ぶりに帰国するため同船した。2人は20年10月、2年ぶりに日本に戻ってきた。その間フェノロサは、アメリカ各地の美術研究機関で東洋美術を講演し浮世絵史綱、北斎画風変遷史を刊行するなどまた日本政府に対しては、古社寺の宝物保存法または国立美術学校の創設に奔走していた。
ビゲローは、白山御殿町(昔の徳川家の薬園跡)4万平方メートルに、阿闍利を招くための理想的伽藍を建設していた。
 ところがさきに日光で病気になり、東京で療養していた敬徳阿闍利の容態が急変、ビゲローは友人の外国人医師に治療を頼んだが22年12月14日死去、遺骨は三井寺へ帰った阿闍利は死の直前、ビゲローの父親もアメリカで重病と聞き、自分にかまわずすぐ帰国させたというエピソードが残っている。
フェノロサが遺書
 8年間の日本勤務を終えたフェノロサは政府から文化財保護に力をつくした功績を認められ、勲三等を授与された。
明治22年東京帝国大学を辞し、継続中だった東亜美術史綱を完成させるため欧州へ取材旅行、アメリカへ帰る直前の明治41年(1908)9月21日、ロンドンで心臓マヒのため急死、55歳だった。
 遺骨は、フェノロサの手帳に書かれていた「I want to come back to Miidera」(私は三井寺へ帰りたい)という遺書によって日本へ送られ翌年の9月21日、彼の心の故郷だった法明院に帰ってきた。

寺では手厚く葬ったのだが、9月21日というのは、フェノロサの受戒の日であり、急死、骨帰山と三度も同じ日に重なったというのはまことに珍しいことである。フェノロサの墓の横にはビゲローの墓もある。
● 唐土山・法明院
 享保10年(1720)義瑞律師の開基で、天台密教戒律の修業道場として創立され、比叡山の安楽院と共に並び称された。
 本堂の阿弥陀如来は鎌倉中期、不動明王は藤原時代の作で、建物は唐破風入母屋造り。
 当時、一般の寺院では許されなかったが、御水尾天皇、霊元法皇が再三参拝されたこともあって、大阪の加島屋7代目によって建立、寄進された。
寺の後ろの長等山は宗祖・智証大師が入唐された際、唐国の土を持ち帰りこの峰に埋められたことから唐土山と呼ばれるようになった。  

参考図書: 『フェノロサ上・下』日本美術;三省堂刊、季刊 園城寺第四号『歴史散歩V』、季刊 三井寺『三井寺と法明院』        
                                           (筆者:曽我一夫)
                
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