第22回 −METRO 157号−



 

江戸時代の学問
 慶長8年(1603)天下を統一した徳川家康は、江戸を本拠に強固な幕藩体制を確立する基盤として、当時盛んになってきた中国伝来の儒学を政策の一端に加えた。 この学問は、宋(1179)の時代の学者・朱子が孔子の教えを研究してまとめたもので朱子学ともいわれる。 藤樹が17歳のとき学んだ「四書大全」は朱子学の本だった。この教えは身分の区別を重んじ、殿へは忠、親には孝をつくすことを本分とするとともに行儀、作法を大切にし、言葉や行いをつつしむことを重んじた。 幕府にとってはまことに都合のよい学問だったため、二代将軍秀忠は、慶長七年(1607)朱子学者・林羅山を儒官として迎え、各藩主に武と共に普及させるよう命じた。

 藤樹の学問 
 藤樹は最初「四書大全」を中心とした朱子学を学んだ。だが朱子の教えは、教え通り実行することが難しく、物ごとがうまく運ばないことがしばしばあり、疑問に悩み続けたあげく、 その解決策として形より心を学ぶことを工夫した。そして「身を修める根本は、外から見える形や他人のことを気にせず、めいめい自分の心によく相談し、その時、その場所、自分の立場に一番ふさわしい行いをすることである」 と気付き「人の心は、その心の中の明徳によって正しく導かれる」と覚った。さらにこの考えを一段と強めたのは正保元年(1644)藤樹37歳のとき、入手した「陽明全書」だった。

 この本は、明の王陽明(1472〜1528)が著したもので「朱子が形式や礼儀を重んじたのに対し、形より心の持ち方を大切に考え、そして人の身分の上下にかかわらず、 だれでも良知という美しい心を持って生まれてきている。これは聖人でも普通の人でも、善人でも悪人でも同じである。それぞれが自分の良知の指図に従って行動しなければならない」 とその教えを「致良知」といい、儒学界では「陽明学」として朱子学に対立した。 
 藤樹は、陽明全書を読んでから、いよいよ自分の学問を深め「人の心の中の良知は鏡のような存在である。多くの人はみにくい色々の欲望が起きて、つい美しい良知を曇らせる。 わたしたちは自分の欲望に打ち勝って、この良知を鏡のように磨き、曇らないようにして、その良知の指図に従うように努めなければならない。と身を修める根本は「良知に致る」ことだと教えた。
 良知に至る道筋 
 さらに良知に至る道筋として次の五事を正すことにあると、具体的な指針を示した。
 五事とは・・・・・
  一 貌(ぼう)和やかな顔つき
  二 言(げん)温かく思いやりのある言葉
  三 視(し)澄んだ優しい眼ざし
  四 聴(ちょう)ほんとうの気持ちを聞く
  五 思(思いやりのある気持ち)

 日本では初の陽明学者 


 藤樹は、十七歳の頃から人間の本性は善であると説く孟子の性善説に立った思想家に育ち、さらに陽明全書を読むうちに、王陽明の致良知説と融合発展させ、日本では初の陽明学者と呼ばれるようになった。
 藤樹以降の陽明学者としては、三輪執斉(年代不詳)、大塩平八郎(1837)=以上= 佐藤一斉(1859)川田雄琴(年代不詳)などがあり、陽明学の精神を生かした人として佐久間象山、吉田松陰、西郷隆盛などがある。

 藤樹の著書 
 藤樹の多くの著書の中で、最もよく知られているのは「翁問答」(おきなもんどう)と「鑑草」(かがみぐさ)。翁問答は、藤樹が33歳ごろに書いたもので「孝は徳の本」であることや「正しい学問とにせの学問との違い」「文と武はひとつであること」そして最後に「聖人となる道」を説いている。
 「鑑草」は、四十歳(死の一年前)に刊行された。女子のための教えを、わかり易く書きまとめたもので、中国の学者の本「迪吉録」(てっきつろく)の中からいろいろな話し方を引用し「良いことをすれば、良いむくいがあり、悪いことをすれば悪いむくいがある」ということなどを丁寧に教えている。
 藤樹こぼれ話 
 藤樹は、弟子達に儒学を教えるかたわら、村人達にも時間を割いて夜集まってきた人達に、親には孝をつくし、主人を大切に、うそをついたり、人の物を盗んではならない」など人倫の道をわかり易く説いていた。これに感化された人達も多くあったという。

 正直馬子 
河原市(高島郡新旭町大字安井川)に又左衛門という馬子がいた。ある日、河原市から榎の宿(滋賀郡志賀町大字和邇中)まで加賀の飛脚を馬に乗せていった。仕事を終えて家に帰り、馬の鞍をおろすと二百両の大金が入った財布が出てきた。驚いた又左衛門は疲れもいとわず、約30キロ離れた榎の宿へ引き返し、困り切っていた飛脚に手渡した。
 お金を紛失して死ぬほど心配していた飛脚は涙を流して喜び、礼金を渡そうとしたが受け取らず駄賃二百文をもらっただけで、遠い夜の道を帰っていった。
 この話は、京都の医師で、文人でもあった橘南谿(1753〜1805)の東遊記に出ている一節で、寛政7年(1795)には見聞録として出版された。医学修業中、藤樹書院に立ち寄り、隣に住む志村周助の案内で書院を見学し、いまも毎月村民を集めて学習をしているなどの説明を受け、そのさい聞いた話という。

 荷車が田に落ちた
 あるとき、藤樹は所用で隣村へ出掛ける途中、たくさんの米俵を積んだ荷車の片方の輪を田んぼのぬかるみに落とし、馬子が難儀している場面に出くわした。それを見た藤樹は、さっそく田んぼに入り、後ろから荷車を押し上げようとしたが動かない。近くにいた村人はだまって見ているだけだったが、藤樹が田んぼに入って懸命に手伝うのを見てびっくり、荷車に駆け寄り、やっとこさで荷車を道へ引き上げた。
 これは明治44年(1911)刊行の河村定静著「中江藤樹百話」におさめられた話。地元小川村に伝わっていた口碑を、著者がはじめて活字にしたものらしい。現在、小学校の副読本に使われている。

 そば屋の看板 
 藤樹が大変な学者だと聞いた鴨村のそば屋の主人は、店の看板を書いてほしいと頼みに行き、藤樹はここちよく引き受けた。一週間ほどして主人は、看板を受け取りに藤樹の家へ行ったがまだ出来あがっていない。また何日かたって伺うと、そこには見事な字で書かれた看板があった。主人はたいそう喜び、さっそく看板を店先に掛けた。ところがある日、加賀の殿様が京都へお上りになる途中、鴨でご休憩になった時、そば屋の看板が非常に良く書けているのを家老が見て感心、その看板を所望した。
 藤樹先生に願って書いてもらったものであるが、主人は心易く売ることを承知したところ、たくさんのお金をもらった。早速、藤樹先生宅へお礼に行くと、先生は軽くうなずかれて主人を押入れの方へ案内し、米びつを開かれた。見ると米びつ一杯に看板の下書きがつまっていたので主人は大変恐縮した。
 この話は、昭和9年(1934)藤樹先生墓所のある玉林寺で行われた「小川村百老座談会」のなかで、当時青柳尋常高等小学校長の奥山孝裕氏が語ったもので、この話も町教育委員会発行の副読本に採用されている。(中江藤樹その三終わり)
参考図書:
読売新聞発行「日本の歴史」 安曇川町教育委員会発行「藤樹先生」 
近江聖人中江藤樹記念館編集発行「中江藤樹入門」

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