宮町遺跡から約1.5`南にある史蹟紫香楽宮跡(甲賀寺跡))
 ところが聖武天皇は、天平16年(744)4月、紫香楽宮で、大仏造営の詔を出し、11月には甲賀寺の建造にかかり、ここを大仏造建の場とした。ところが度重なる山火事や地震でいたたまれなくなり、恭仁京から平城京に遷都、翌年東大寺を起工、七年後の天平勝宝4年(752)に東大寺大仏開眼供養にこぎつけた。崩御の4年前だった。甲賀寺はその後国分寺として存在したが、平安時代に火災で焼失したらしい。
町内に二つの紫香楽宮跡 

 宮町の発掘現場から約2`南東の同町雲井大字黄瀬、牧両地区にまたがる山中に数多くの礎石を残した「史蹟紫香楽宮跡」がある。広い山林を切り開いた広大な地域。大正15年(1926)史蹟の本指定を受けた県は、この時点では宮町遺跡はなかったので「史蹟紫香楽宮跡」と表示、現在に至っている。ところが昭和5年から始まった県保勝会の調査で、この遺跡は、礎石の配置状況から西側は金堂、講堂を中心に、東側に塔を配する東大寺に似た寺院の伽藍配置をとっていて宮跡ではないことが判った。
 
 宮町遺跡の全景(手前は西脇の建物跡)
−紫香楽宮跡の発掘−
 聖武天皇(45代)が、天平14年(742)現在の滋賀県甲賀郡信楽町大字宮町に遷都したと伝えられる紫香楽宮(しがらきのみや)の発掘現場で、平成15年11月22日午後2時から第31次発掘調査の現地説明会が開かれた。季節風の吹きすさぶ寒い午後だったが現場の田のあぜ道を埋めた研究家、同好の人達約300人が、一時間半にわたって同町教育委員会文化財調査室・鈴木良章係長の説明に耳を傾け、天平の皇居をめぐるロマンに眼を輝かせていた。
 

 この調査は、同教委が昭和59年2月から開始、今年で足かけ20年の節目を迎えた。息の長い調査ではあったが、発掘した建物跡、塀、溝、土器、木製品、種子、木簡類を丹念に調べるうち、平成13年の第28次調査で西脇殿跡を、続いて翌14年には東脇殿(いずれも南北百bの建物跡)および両脇殿の北側中央付近から北殿と五間門跡を発掘、紫香楽宮の中心である「朝堂院」の区域がほぼ判明した。

 31次調査では、聖武天皇は在位中、ごく短期間のうちに平城宮(へいじょうきゅう)−難波宮(なにわのみや)−恭仁宮(くにきゅう)=京都府加茂町=紫香楽宮と遷都したがその際、東西両脇殿の外側に外部と区別するための塀をつくっていた。ところが紫香楽宮では、西脇殿の塀跡がみつからないばかりか、同殿の中央付近からさらに西側14.8bで、桁行(けたゆき)14.8b、梁行(はりゆき)5.8bと、さらに桁行2.9b以上、梁行6.2bの東西棟二軒の掘立柱建物跡と溝一条、都の造営で埋め立てられた谷と竪穴住居跡一棟を発掘した。両建物とも朝堂院を構成する遺構の方位にあるところから紫香楽宮中央部の建物配置は他の難波、恭仁宮にはない独自のものである可能性も出てきた。

 この調査委員会の指導をしておられる小笠原好彦滋賀大教授は「平城宮や恭仁宮の例から脇殿の外に塀があると考えられていた。類のない建物配置で、もう少し西側に塀があった可能性もある。建物の性格については慎重に調査を進めたい」と語っておられる。
(平成15年11月13日 読売新聞滋賀版記事参照)

参考資料:信楽町教育委員会刊行 「よみがえれ紫香楽宮」、
      読売新聞社刊行「日本の歴史」
植木鉢の台で宮町遺跡が判明 
 昭和58年から同町で行われていた県営圃場整備事業で、宮町の水田を掘り起こしていたブルドーザーが直径60aの柱根を発掘した。珍らしいものだと自宅に持ち帰った農家の人が、その柱根を植木鉢の台にしていたのを近所の住職が知り、見たところ柱根はかなり古い用材で、建物は火事で焼けたらしく、地中に埋まっていた部分がそのまま残ったものとみた。
 報告を受けた町教委は早速、柱根を文部省(現在文部科学省)に送り、年輪年代法による測定を依頼したところ、天平15年(743)秋に伐採されたものと判り、早速宮町遺跡を紫香楽宮跡とみて第一次調査にかかった。

発掘された木簡が宮跡を証明 
 宮町遺跡は発掘された建物跡だけではなく、宮跡を正確に裏付したものは、約10回の調査で発掘された約7千点にのぼる大量の木簡だった。この数は、文部省の調べでは全国でもトップクラスといわれ、木簡の重要性が再認識された。

 中でも「造大殿所」(ぞうおおとのしよ)と書かれた木簡。当時、紫香楽宮の造営工事を行っていたのは「造離宮司」という役所で、恭仁京の造営を担当していた「造営省」の一部を割いて造られた。「造離宮司」の内部は、いくつかの部署に分かれていて、そのうち大殿の造営を担当する部署が「造大殿所」といわれた。大殿は、宮の中心建物で、天皇の居所だった。この木簡が宮町遺跡から出土したことは、宮町遺跡が紫香楽宮そのものであることを動かしがたいものとした。

 また、天平15年10月、政府は「東海、東山、北陸三道25か国の今年度の調、庸等(税金)は紫香楽宮に送れ」という指令を出した。本来は恭仁京に運ばれるものだが、天平15年の東日本分に限って紫香楽宮に運べと指示した。宮町遺跡からは東日本諸国の調の荷札が発掘されており、なかでも越前国の荷札は天平15年11月の日付が書かれており、この指令とも一致した。

 土器類も宮跡を裏付け、平城宮で使われていたものと同じものが発掘され、当時宮町遺跡で都と同じような生活が送られていたことが判る。土器の中には墨書土器や線刻土器も見つかっており、そのうち「御厨」(みくりや)は、木簡にある「御炊殿」とともに、いずれも「御」と書かれているので王権とかかわりがあると考えられる。

 また「万病膏」は、左右近衛府や兵庫寮などの軍事官司、遣唐使以下の外交使節が携帯する薬。それに転用硯(てんようけん)=硯に転用された土器=が出土するなど宮町遺跡に多くの官人がいたことを思わせる。

紫香楽宮と甲賀寺を結ぶ幹線路の発掘 
 県教委、財・県文化財保護委員会は、平成12年、宮町遺跡と史蹟紫香楽宮のほぼ中間にある「新宮神社」の遺跡調査をした。この結果、両遺跡を結ぶ南北の道路と、それに連らなる橋脚がみつかった。これは往時、紫香楽宮(宮町遺跡)と甲賀寺(史蹟紫香楽宮跡)を結ぶ幹線道路があった可能性の強いことがわかった。

 このことは、奈良時代の紫香楽地域が、宮町遺跡と史蹟紫香楽宮跡の2点だけでなく、宮町遺跡の北側からも奈良時代の建物跡などが発掘されているところから宮町遺跡の周辺が「京」(皇居のあるみやこ)として広範囲に開発されていたと思われる。

来年は甲賀市が調査 
 信楽町は今年、周辺の水口、甲南、甲賀、土山の5町が合併、来年10月から甲賀市(人口9万2千人)として新発足する。現在の調査体制がどのようになるかは判らないが、同町教委文化財調査室長・雲林院治夫氏は「眼の前にゴールが見えているんですから、あとはだれがやろうと塀跡など残された問題点を一つ一つクリアーして1300年前の紫香楽宮の素顔を現出したい」と語っておられた。

 こうしてみてくると、本当の紫香楽宮は、宮町遺跡から発掘されたもの以外にはなく、史蹟紫香楽宮跡は、聖武天皇が大仏鋳造の寺として造建を始めた甲賀寺跡で、奈良国立文化財研究所が作製した「史蹟紫香楽宮跡遺構復元図」は、どう見ても宮殿ではない。五重塔を構えた立派な寺院としか思えない。一日も早く二か所の紫香楽宮跡が一か所に決まることを願って止まない。


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