− 小野の里 −
      第45回
                    
 平成15年10月のことだった。秋風に誘われて自転車に乗り琵琶湖を1周してみようと旅立った。
琵琶湖の最南端、南郷洗堰に到着したのが朝の7時半。ここから時計回りに走ってみることにした。
大津市は湖南地域のように思っていたが、南北に意外と長く距離にして30kmぐらいはあるだろう。その大津市を縦断して志賀町の小野の里(現在は大津市に合併)に着いた。

 この地は聖徳太子の時代から歴史に名を残した小野一族を輩出した地である。
▲唐臼山古墳からの眺望
その代表的な人物の一人が小野妹子であるが、彼は607年の遣隋使として隋の皇帝煬帝(ようだい)に謁見し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」の国書を渡した人物である。JR湖西線小野駅の北西の住宅街の中に小高い丘がある。

ここが小野妹子の墓とも伝えられる唐臼山古墳で、この古墳を中心に付近一帯は小野妹子公園として整備されている。琵琶湖を見下ろす静かな公園で、妹子神社もここにある。
▲小野妹子神社
▲小野道風神社
▲小野神社
▲小野氏系図




また、妹子にはこんな伝説もある。 聖徳太子の教えに従って出家し、太子沐浴の池の隣に六角堂(京都の頂法寺)を建てて仏像に毎日お花を供えていた。これが子孫に受け継がれ池坊流華道に発展したという。



 
公園を出て西近江路(北国海道)の旧道を北へ行くと小野道風神社がある。案内板に寄ると、この神社の本殿は1341(歴応4)年の建造で、神社建築としては珍しい切妻造に向拝を設けた平入で、流作りの神社建築ににており、国の重要文化財に指定されている。祭神の小野道風(894〜967)は平安時代の書家で、蛙が繰り返し柳の枝に跳びつく姿を見て自分も奮起しなければと悟り、やがて三蹟と呼ばれるまでの書道家になったという人物。



さらに西近江路を北上すると小野氏の氏神を祀る小野神社に至る。小野妹子が先祖を祀って創建したと伝えられ、延喜式神明帳にも官幣大社として載っている。

祭神は神話時代の第5代孝昭天皇の皇子で小野一族の始祖にあたる天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とその7代の孫に当たる米餅搗大使主命(たがねつきおおおみのみこと)である。
天足彦国押人命は大和朝廷成立以前に今の近畿地方を統治していた豪族の長で「小野神社由緒記」によるとこの地に早くから在住していたとの記載がある。米餅搗大使主命は、応神天皇(実在性が濃厚な最古の大王)の時代に日本で初めて餅つきをしたといわれ、この姓を賜り、それゆえ現在ではお菓子の神様として信仰されている。

毎年、10月20日には全国の菓子業者による「しとぎ(粢)奉賛大祭」が行われ、全国の菓子業界の代表者らが自家製の餅や菓子類を供えて業界の発展を祈る。11月2日には「しとぎ(ひとぎ)祭」が行われ、粢餅を供えて五穀豊穰を祈る

 小野神社の案内板では写真のような系図が描かれているが、日本人名大事典、古代氏族系譜集成、日本史広辞典、コンサイス日本人名事典など、どれを見ても全てが異なっており定かではない。



小野神社と並んで建っているのが小野篁(たかむら 802〜852)を祀る小野篁神社である。
小野道風神社と同じ頃に建てられたと考えられ、規模は前記3棟の中で最も大きい。小野篁とは平安時代、嵯峨天皇(上皇)に仕えた学者であり、漢詩人であり、歌人としても有名な人物。

▲小野篁神社

百人一首の「わたの原 八十島かけて漕ぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟」は篁の歌である。

刑部大輔、陸奥守、東宮学士、蔵人頭等を経て勘解由使の長官に昇進しているが、変わった逸話もある。

それは昼間は勘解由使の長官を勤め、夜は地獄の閻魔大王の横に並ぶ冥官をも務めており、あの世とこの世を自由に行きしたという。
その他、案内板によると小野小町も小野篁の孫である。



 平安時代、小野氏は都の周辺に拠点ともいうべき地域をもっていた。それは葛野郡(平安京西部)、宇治郡(同南東部)、愛宕(おたぎ)郡(同北東部)の小野である。愛宕郡の小野には惟喬(これたか)親王が隠棲していた。そして人々は親王のことを「小野の宮」と呼んでいた。

惟喬親王は文徳天皇の親王時代に第一皇子として生れ、幼少当時から聡明であったため、将来を嘱望されていた。ところが皇太子の座に着いたのは、右大臣藤原良房と血の繋がりがある6歳年下の惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)だった。

文徳天皇が亡くなると僅か9歳の弟が即位し、惟喬親王は九州や関東の官職に任命され都からは遠ざけられた。そのため28歳という若さで出家する道を選び、愛宕郡小野で一時期を過ごしていたのだった。
この時期のことは「伊勢物語」八十三段に右馬頭(在原業平)が小野に親王を訪ね、「忘れては 夢かとぞ思ふ おもひきや 雪ふみわけて 君を見むとは」と詠み、泣く泣く都に戻るシーンとして描かれている。

その惟喬親王であるが、何故か轆轤(ろくろ)木地師の業祖とされている。轆轤木地師とはろくろを使って材木を削り椀や盆やコケシなどの木製品を作る人のこと。
俗説では皇位継承にからんだ争いから逃れて、滋賀県の永源寺からさらに山奥の小椋谷(おぐらたに)に潜み、里人たちにろくろの技術を教えたとされている。

ところが惟喬親王に木地師に必要な技術を具えていたようには考えられない。それではいったい何が親王と轆轤木地師を結びつけたのだろうか。

私的な推論ではあるが、
惟喬親王=「小野の宮」であること。
小野氏の氏神の「たがねつきおおおみのみこと」つまり「鏨(たがね)」=切削のイメージがあること。
平安時代、植林という手段が確立されてなく、木地師は材木を求めて移動する非定住民であった。そのため都人からは下賤視されたが、このことに対して木地師は堂々と氏素性を主張したかった。

これら3つの要素が絡み合い、紆余曲折があったかもしれないが、木地師と惟喬親王との結びつきができあがったのではないだろうか。

湖西の小野の地を訪れると、あちこちに古墳があり、勾玉、菅玉、銅鏃、甲冑、土器などが出土する。また有名な小野一族の先祖が祀られている。まさに千古の歴史が埋まった悠久の思いを胸に抱くことが実感できる地なのである。
(遠藤真治記)


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