第41回
           − 格子の中の虎 −
 湖西の都市・高島市は、明治維新まで大溝と呼ばれ、小藩ながら、二万石。分部(わけべ)候の城下町であった。
その位置は、現在のJR・湖西線高島駅前の高島病院の北西・約100mに陣屋があった。今はわずかにその表門の一部惣門が残っているに過ぎない。


▲ 近藤重蔵墓所(高島市指定史跡(瑞雪禅院裏山)ここからは、満々と水をたたえた琵琶湖を眺望することができる。重蔵はこの裏山をこよなく愛したが故に、ここに葬られたという。
 話は、今から約180年前の文政10年2月15日(1827)この大溝の陣屋に、厄介な荷物が到着した。

 それは宝物ではなく、けだものでもない。顔中、ひげに包まれたまるで虎のような大男であった。大男の名は、近藤重蔵といった。
 近藤重蔵といえば、当時、大日本沿海輿地の地図を完成させるため、伊能忠敬といっしょに、その頃蝦夷と呼ばれていた北海道を五度も調査し、さらにエトロフ島やクナシリ島まで、足をのばした探検家。
また江戸城内にある幕府の書庫を預る御書物奉行をつとめ、千冊に及ぶ書物を著した学者でもあった。このように近藤重蔵の名前は、その頃の日本人なら誰一人として知らない者はない有名人であった。

 ところが重蔵の長男・富蔵が、ささいなことから近所の百姓とけんかをし、あげくの果て五人もの人を殺してしまうという事件を起こし、重蔵も、家事取締不行届の罪を問われて、お家は断絶、重蔵自身、罪人として大溝藩分部(わけべ)家のお陣屋に、お預けの身となった。
それにしても近藤の身柄を預かったお陣屋は、迷惑な話。 何しろ、預る罪人は、日本中、誰知らぬ者はないという有名な人物であり、その上公儀直参のお旗本とあって、幕府直々のお達しで預るわけですから、もしいいかげんに扱って、万一の事でもあれば分部家の家名にもかかわることになる。
▲ 高島市に唯一残る陣屋の惣門跡
 分部家は陣屋を増改築 とにかく縦7m、横16mの座敷牢と、番士の詰め所が五つもある大きな家を建て、まわりを高さ3mの木の塀で囲い、さらにそのまわりを高さ3mの木の塀で囲い、さらにそのまわりに竹矢来をめぐらすというものものしい準備をして近藤重蔵を迎えた。

 江戸からの長旅を終えてお陣屋へ着き、座敷牢の格子の中の四畳半に落ちついた近藤重蔵のところへ、白湯(さゆ)をささげて持っていったのは、牢番士の一人、弥吉であった。
重蔵は格子越しに白湯を受け取り、少し口につけたが「ぬるい。分部家では、こんなぬるい白湯しか飲ませないのか!」と割れるような大声を出すと、湯気の立つ白湯を弥吉にぶっかけた。とび上がったかと思いのほか、弥吉は平気な顔。
腰の手拭いで、あごの辺りを拭うと「おとりかえいたします」と丁寧に頭を下げて立ち去ると、また、さっきと同じように、白湯をささげて戻ってきた。

 その態度には、重蔵を恐れる様子も、卑屈なところもない。
重蔵は不思議なものを見るような眼で、白湯を受け取り、今度は、喉を鳴らしてのみ干した。
  「番士どの、名前は何と申される」からかうような調子で聞く重蔵に、
  「井上弥吉と申します。」 弥吉は微笑をたたえながら答えた。
  「うむ。この近藤がどういう男か、聞いて居るか。」
  「はい。組頭様は、虎のような恐ろしいお方じゃと申されました。」
  「それで―この拙者が怖くないのか。」
  「別に変わったお方とは思いませんでしたが、ただ…。」
いいよどんだ弥吉の言葉に、重蔵は皮肉な笑いを浮かべながら聞きました。
  「ただどうしたのじゃ、申してみい。」
  「はい、ただ何やら淋しそうなお方じゃと思いました。」
  「淋しそうな…。」
重蔵の皮肉な笑顔が、いつか、自らを嘲けるような笑いに変わりました。
  「淋しそうなお方か…。はは… お主は変わっとるのう…ははははは。」
近藤重蔵が、大溝で迎える初めての朝のことです。
  「えーい。うるさいカラスだ。」
格子をへだてた詰所で、不寝番をしていた三人の番士は、重蔵の声にとび上がりました。
  「何か御用でございますか。」番士の一人が格子の前で、手をつかまえました。
  「やかましいと申すのだ。お主にはあの声が聞こえぬのか!!」
  「声と申しますと」
  「カラスじゃ、あのカラスめ、どうにかならぬのか、あの声を聞くと拙者を江戸から追放しくさった老中、
   水野忠成めの声を思い出すわ。」
番士は、きょとんとした顔で聞き返しました。
  「カラス、カラスが、どう致しました。」
  「やかましいと申しのじゃ。」

  「は、はい。でカラスをどういたしますので。」 重蔵は、ますますいらだつばかりです。
  「えーい気のきかぬ田舎ものじゃ、追っぱらってくれと申すのがわからぬのか!」
  「でもカラスは…。」
いいかけた番士のあごのあたりに格子の間から、にぎりこぶしがとんで来ました。
その日、大溝の城下町では、前代未聞のカラス狩りが行われました。
分部家の家中が総出で、いや大溝の町に住む人々みんなが、狩り出されてカラスを追いまくりました。」
しかしカラスは、上空で右往左往する人間をあざけるように、アホウ、アホウと鳴くばかり。
ようやく、カラスの姿が見えなくなったのは、もう日もとっぷり暮れた頃でした。
その翌日、格子の中の重蔵へ食事を運んだのは、かの弥吉でした。
  「近藤さま。昨日はカラスがやかましいとおっしゃったそうでございますな。」
  「それがどうした。」
  「家中のみんなで城山や長法寺まででかけてカラス狩りをいたしました。」
  「道理で今朝は静かであった。」
  「二、三日すればまたカラスが参りますに―」
重蔵の表情は、急にけわしくなった。弥吉はそれに気付かぬ風に、
  「カラスが居るのは、何も大溝だけではございません。それに大溝の空一杯に網でも張らんことには、
   どこからでも飛んでまいりまする。」
重蔵は、それっきり黙り込んでしまいました。そして短かい箸で食事をしながら、ときどき苦笑をもらしているばかりでした。

▲ 墓地へ向う石段
 このカラス騒動以来、近藤重蔵は、どんなに暴れても、弥吉が行くと不思議におとなしくなりました。そしてだんだん落ちつきをとりもどした重蔵は、分部家の家臣達に、書物の講義を聞かせたりしていましたが、それと共に体も次第に衰えて病の床に伏せってしまった。

高い熱が続きました。重蔵は時々、ガバッとはね起きて、
  「蝦夷を守れ、オロシヤが攻めて来るぞ!」と大声で叫んではまた眠り続けました。
 そして文政12年、大溝へ来てから三年目の陰暦6月9日、重蔵は、雷鳴がしきりにとどろく座敷牢の中で、息を引きとった。
探検家、学者として世に知られた時代の先覚者近藤重蔵は、こうして59年の生涯を閉じたのである。
高島市瑞雪院の裏山には、今も近藤重蔵の墓が、北の空をにらみながら立っている。大溝藩主分部左京亮光寧は、重蔵を丁重に遇した。重蔵はそれにこたえ、大溝藩士と親交し、文教に尽すとともに「江州本草」三十巻を著わした。
この本は、近江の植物年鑑誌に当たる書物である。かくて幽閉の身としての不遇と悲傷に耐えつつ、生涯の終りを全うし、文政12年(1829)6月9日に病没したのである。

 明治44年9月に重蔵は探検の功によって正五位を贈られたし「近藤正斉全集」三巻(図書刊行会)も刊行され、有志の人達によって墓前祭も行われてきた。
 八丈島に流罪となった富蔵は明治13年(1880)76才の時に赦免され、父の墓を度々訪れている。富蔵は罪を懺悔し、八丈島の教育文化に尽すとともに「八丈実記」全七巻(穀n社)の著者として有名である。重蔵の足跡を示す遺品は、高島市歴史民族資料館で大切に保管されている。

(曽我一夫)
参考図書   近江風土記
         昭和45年4月1日発行
   編者   NHK大津放送局放送部
   発行者 NHK大津放送局
   発行所 NHK大津放送局


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