最澄が日本天台宗の開祖として有名な人物であることは、いうまでもない。しかし、最澄をただすぐれた宗教家としての一面からだけで見ることは当たらない。最澄の詩文は、わが国の文学史上で立派な地位を占めており、彼の書も久隔帖(きゅうかくじょう)など国宝に指定されているものが数点あり、書道のうえでも平安初期を代表する名筆のひとりに数えなくてはならない。
 彼の刻んだ仏像も十五点伝わっているが、いずれも時代を代表する逸品である。しかしながら、最澄の本領はなんといっても日本の宗教史上に果たした役割にある。
▲根本中堂
 最澄は、今から千二百二年前(神護景雲元年=966年)近江国滋賀郡古市郷、三津首百枝の子として生まれ、幼名を広野といった。最澄の出生地は、坂本の生源寺のあたりだといわれているが、古市郷というのは、後世粟津といわれた地域で、瀬田川以西の湖岸一帯を指している。いずれにしても現在の大津市が最澄の誕生地である。
三津首の先祖は、中国後漢の孝献帝の血筋の登真記(とまき)王で、応神天皇のころ(四世紀)に、わが国に帰化したと伝えられている。
▲根本中堂
 偉人といわれるひとびとの誕生には、いろいろな伝説がつきまとうものであるが、大師の生誕にあたっても、その例にもれず、彼が生まれたときには、手に白銀の薬師如来の小像を持っていたとか、生まれて七日目、母の懐から踊り出て、東に向かって七歩あるき、合掌して法華経を誦したなどと、いろいろ伝えられている。広野は七歳のとき、父に連れられて奈良大安寺の高僧行表法師を訪ねた。
行表法師は、間もなく近江の国分寺の住持となったので、その後も熱心な指導を受けることができ、仏教についてはもちろんのこと、陰陽(おんよう)医学、工芸などいろいろの学問をくわしく学びとることが出来た。15歳のとき、国分寺の学僧に欠員ができたので、行表法師の推薦によって出家することになった。
 出家した最澄は、仏教学の道場奈良に赴いて勉学にいそしみ、延暦4年の4月、東大寺の戒壇にのぼり、戒を受けた。すなわち僧侶としての正規の資格が認められたのである。
 時に19歳であった。最澄は間もなく官寺の生活を避けて郷里に帰り比叡山にこもった。
 比叡山は古い昔から知られた神山ではあるが、最澄の登ったころは、草木の生い茂る全く人の住まない深山であった。青年僧最澄がなぜこんな静寂な深山に入ったのであろうか。
 八世紀も半ば過ぎるころになると大化の改新に始まった律令国家は、いろいろなところに矛盾が生じてくるようになった。
 政教一致の弊害がでてきたのもそのころで、恵美押勝(えみおしかつ)と前後して現れた僧玄ム(そうげんぼう)、道鏡(どうきょう)の輩出など奈良朝時代末期の社会は、綱紀の乱れがはなはだしかった。
 仏教は、表面は、花やかであるが、その内容は宗教本来の道からはずれた空虚なものであった。僧侶たちは、時の権力者に迎合して異国風な荘厳の中に身を持するだけである。かれらは教団の権威を固持するために、特定の人物のみに僧侶の資格を認め、その他のものが僧侶になることをはばんでいた。しかもかれらは、人間は生まれながらにしてだれでも成仏できるのではなく、成仏できる人と、できない人があるという考え方をしていた。
 最澄の青少年時代は、政治の面でも宗教の面でも革新されなければならない機運が熟しており、桓武天皇の新政といわれるものは、こうした社会情勢に対応する革新政治であった。東大寺で受戒した青年僧侶最澄が官寺を去って深山比叡に登ったのも、腐敗した旧教団と縁を切り、純粋な教義をもつ一宗を樹立しなければならないと、深く心に決したためであると考えられる。
 最澄、比叡山に草庵をつくる
 こうして最澄は、静寂森厳な比叡山に登って草庵をつくって座禅修学の生活に入り、懸命に読書に励んだ。たまたま華厳宗の章疏を研究したところ、天台大師の思想に心から共感し、激しい気迫を持って天台円教の教義の真髄を追究し続け、延暦7年(788)7月、22歳のとき比叡山寺を建立したのである。比叡山寺は後に一乗止観院とよばれ、また根本中堂ともよばれるようになった。この比叡山寺の建立こそは、南都大宗とは別に新しい宗派天台円教の成立をはっきり示したものであった。
▲伝教大師


  ▲天台大師



(曽我一夫記)
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