-神話と謎の熊野紀行 その3- 
                                             第29回
  熊野紀行第1夜が空けた。休暇村名物の露天風呂から眺める日の出は見損なったが、この宿が熊野灘に昇る朝日を眺める絶好の地であることは間違いない。部屋から、そして展望テラスから見える海は、シーマンの心を揺さぶる水平線の果てまで続く青い海原、大平洋である。群青の海の先ある何かは、海と海流を眺める人を永遠に誘い続けるのであろう。

●補陀落山寺石碑と渡海船
 第2日の最初の訪問は勝浦町の補陀落山寺である。南方海上にあるという観音浄土をめざし、生きながらにして小舟に閉じこもり、補陀落渡海に乗り出す出発地がここである。小舟でそんな所までたどり着けるわけはないが、聖なる地で永遠の生命を得ようという信仰による宗教的実践であった。境内には、平安前期(868年)から江戸中期(1722年)まで、この地から死の船出をした25人の僧らの名を刻んだ石碑が建っており、また復元された原寸大の渡海船も展示されている。
 寺を出た交差点が川に沿って那智の滝へと登る道の起点である。那智川も台風12号で被害(2011年9月)を受け、至る所が工事中だが、被害は道路には及ばず川の周辺に止まっているので、目的地のごく近くの駐車場まで支障なく行くことが出来た。50年前に来た記憶では、バスを降りてから階段を延々と昇った記憶があるが、今や80翁にはとても無理である。またここには古道の趣を色濃く残す大門坂があり、夫婦杉など写真撮影のポイントがあるが、それらも熊野古道の説明を聞きつつ、車中から眺めて通り過ぎた。登り詰めた有料入口を入り、さらに奥の那智の滝をほぼ水平に眺めることの出来る駐車場まで行くと、そこからは熊野那智大社と青岸渡寺は歩いて直ぐである。
●那智の滝
 青岸渡寺はインド渡来の名僧が滝壺で見つけたという如意輪観世音菩薩を本尊とする古刹で、西国三十三霊場の第一番札所である。有名な御詠歌「補陀落や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬」がある。寺に隣接した鳥居を入ると熊野那智大社である。朱塗りの熊野権現造の社殿が背後の那智原始林の緑と鮮やかなコントラストをなしている。熊野夫須美大神(イザナミノミコトの別名)を主祭神とする「熊野十二所権現」を祀っており、境内には八咫烏が石に姿を変えたという烏石もある。
 毎年7月14日に行なわれるここ熊野那智大社の例大祭は、「火祭り」あるいは「扇祭り」とも呼ばれる勇壮な祭典である。熊野那智大社での神事を終えた十二基の「扇御輿」がゆっくりと、巨木に被われて昼なお薄暗い石段を下りてくる。一方、大滝を見上げる飛滝神社からは十二本の大松明が迎えに出発する。石段の途中で、「扇御輿」と出会った大松明は円を描くようにして御輿を迎え、飛滝神社へと誘導する。火祭りの意味合いについては、火と水の「まぐあい」、諸悪の消滅と諸善の創造など色々な説があるが、その中で興味あるのは「神大和磐余彦(神武)」の熊野上陸の故事を儀礼化したものという伝承である。「扇御輿」の列は「天つ神」の隊列であり、石段の上から下りてくる東征軍を、松明をかざした地元民が迎える構図であるという。時代を経るに従い、この祭りは秋の豊作を祈念する農耕祭の色合いを強め変化して行った。この祭りを文献上の知識ではなく、現場に立ち会って見聞したいものと願っていたが、苦手の石段のからむ行事ではかなわぬ夢であろう。
●神倉神社
 山を下って、那智勝浦新宮道路に入り新宮市へと直行する。市内に入り、見所の多いこの町で最初に訪れたのは神倉神社である。国道から難儀な道をくねくねと入るのは変わっていなかったが、鳥居の前に9年前に来た時には無かった便利な駐車場ができていた。ここは熊野速玉大社の摂社で高倉下と天照大神を祀っており、背後の熊野川の河口を見下ろす神倉山の「ゴトビキ岩」がご神体である。「日本書紀」に神武軍が「熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る」とあるのが、形状からこの岩のこととの伝承があり、その石碑が建てられている。神武一行はここからさほど遠くない所に上陸し、熊野川を遡って進み、本宮大社の現在地に到るどこかで「熊野の神」の毒気にあてられ、高倉下の奉る劒によって救われたと神話は物語っている。このように活躍して、神日本磐余彦(神武)への物部氏(𩜙速日)の帰順という大仕事を果たしたにしては、高倉下は熊野や大和では重んじられておらず、なぜか越の国へ派遣されてしまう。高倉下を祀る神倉神社の「御燈祭」は熊野那智大社の「火祭り」と双璧を成す特徴のある祭りである。祭りは毎年2月6日の夜に行われ、神倉山の頂上「ゴトビキ岩」から松明の火が一斉に駆け下りる勇壮な祭りとして名高い。「大和王権幻視行」の著者桐原氏は「この「縦の火流」は、ヤマト王権の創始者が熊野の地で「水平」から「垂直」にその世界観を転換するきっかけをつかんだこと、そのキーパーソンは高倉下であったことを歴史に残す「指紋」かもしれない」と述べている。また「山は火の滝、下り竜」と表現される闇を切り裂く縦の火流は、天上からの祖先神の降臨の姿とも見ることが出来るともいう。

●ごとびき磐への階段  ●石段の上から撮影
 新宮市を切り上げ、熊野川河口の新熊野大橋を渡ると今の府県の区分では三重県の熊野となる。国道を北上すると右手は、ウミガメが産卵に訪れるという七里御浜である。白砂青松の美しい浜辺であり、その先に花窟(はなのいわや)神社がある。日本書紀に書かれたとおりに、祭りがそのままの姿で現在も行われている珍しい例であるという。花の窟は火の神である軻遇突地(かぐつち)を産んだときに「ほと(陰部)」を焼かれて死んだ伊弉冉尊(いざなぎ)の墓所と日本書紀に記録されているが、一方、古事記では出雲と伯耆の境の比婆の山に葬られたと記している。この神社のご神体は高さ70mの巨岩であり、そのふもとに大きなくぼみがある。「ほと穴」と呼ばれ、そこが伊弉冉の墓所だとされ、玉垣をめぐらし、白い石を敷き詰めた拜所となっている。毎年2月と10月に「お綱掛け神事」が行われる。お綱の長さは170m、編んだ綱に小縄を幡の形にしたものを下げ、その先に季節の花々や扇を結びつける。「縄の幡」3流を、窟の上から前に建つ高い塔に掛け、「お綱」の先端は遠くまで引いて固定する。花と歌の祭りで、書紀の「土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・笛・旗をもって歌舞してお祭りをする」が行われている。大岩の上から海岸に張られた「お綱」は海の果てにある常世と現世、そして伊弉冉が行った黄泉の国を分ける結界だという。
●花窟・いざなぎの墓所

 本居宣長は「紀の国や、花窟にひく縄の、長き世絶えぬ里の神わざ」と歌っている。興味は尽きないが詮索し出すときりがないので、茶店で土地の名物を試食・購入などして切り上げ、今宵の宿舎に向かう、宿は高台にある「かんぽの宿熊野」である。ここからも熊野灘がよく眺望できる。
(岡野 実)
    文献 桐村英一郎 大和王権幻視行 熊野・大和・伊勢 方丈社出版 2010。


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