-継体天皇(ヲホド王のち大王) その2- 
                                             第20回
  「継体天皇」の名号(漢風諡号)は、この天皇が活躍した六世紀初頭から前半期には存在していなかった。天皇号の使用は天武朝で始まったとされ、過去の天皇の諡号は奈良時代後半期に制定されたとされている。継体の諱(実名)は「古事記」に「袁本杼命」、「日本書紀」に「男本迹天皇」、「上宮記」に「乎富等大公王」、「筑後国風土記」逸文に「雄大迹の天皇」などと記されている。これらはいずれも、古代日本語の音韻法則では「ヲホド」と読むのが適当とされている。

 5世紀の倭の五王の時代に、その後半の雄略(武)になって、大王家は大和連合政権を構成する近畿の有力豪族からぬきんでた「治天下大王」の地位を確立した。そのことは「倭王武上表文」や、「稲荷山古墳出土鉄剣銘」(埼玉県行田市)などで明らかである。ところが雄略の没後、後継者であった白髪皇子(清寧)が即位後短時日に亡くなり、王統断絶の危機を迎えた。そして允恭(済)−安康(興)−雄略(武)−清寧と続く王統からはなれ、允恭の兄である履中(讃)の孫、顕宗・仁賢が相次いで即位している。この二王は父の市辺押磐皇子が雄略によって殺害された後、播磨の縮見屯倉に隠れていたところを、偶然発見され朝廷に迎えられたと記紀に書かれている。二王の没後即位したのは、仁賢と清寧の妹春日大郎女との間に生まれた武烈であったが、この武烈にも子がなく再び王統断絶という、より深刻な事態に見舞われたのである。

 「古事記」は武烈天皇が亡くなったが、天皇には王統を継ぐべき子も親族もなかったため、応神天皇五世孫と称するヲホド王〈継体〉が近江から大和に迎えられ、仁賢天皇の皇女手白髪命と結婚して即位したことを述べている。いっぽう「日本書紀」は武烈の崩御後、

大連の大伴金村が群臣に議して、後継者を求めることとし、まず仲哀天皇の五世孫であるヤマトヒコ王を迎えようとしたが失敗し、改めて越前三国にあった、応神五世孫のヲホド王を迎えようとしたことを記している。ところがヲホド王は要請を再三固辞し、旧知の河内馬飼首荒籠の説得により、ようやく樟葉宮において即位したとしている。記紀はこの時期の大和政権が、王権の継承・存立をめぐって、大きな危機にあったことを明記しているものの、その記述には信憑性の問題があるとされ、ヲホドの登場をめぐる「継体の謎」についてさまざまな説が唱えられてきた。ヲホド王は近江または越前を基盤として、「風を望んで北方より立った豪族の一人」で、応神五世孫というのは仮構にすぎないという見解や、近江に本拠をおき、記紀の王統譜に幾重にも絡まって登場する息長氏がその出身氏族であるとする見解などが出されている。

さて、ヲホド大王の后妃の顔ぶれは、その生い立ちや、即位の事情を考える上で大事な手がかりを与えてくれる。「書紀」によれば、大王には九人の后妃がいた。そのうち欽明の母である手白香皇女は仁賢の娘である。残りの八人の妃を出身地別に分けると、近江が五人、尾張・大和・河内が各一人となる。目子媛(尾張)が最初の妃で、五人の近江出身の妃とともに即位前にめとったとみられる。それに対して「書紀」に皇后と記された手白香皇女や?媛〈ハエヒメ・大和〉・関媛〈河内〉は即位後に妃にしたものとみられる。有力者の結婚はもとより政略的要素を含んでいるが、ヲホド大王の場合はそれが顕著である。

幼くして父・彦主人王が亡くなった後、ヲホドは母・振媛の故郷、越前三国で育てられた。ヲホドの后妃には父の代から関係の深い、近江高島の三尾氏の妃が二人みえる。この越の国から湖西の近江高島はヲホド王を支える最も重要な基盤であった。次いで尾張の目子媛が越前在住中の比較的早い段階で妃となっている。ヲホドの父の彦主人王の母は、美濃の豪族牟義都国造の娘という、ヲホドは祖父の段階からの美濃の豪族とも繋がりがあったわけである。この尾張・美濃との同盟関係は、五世紀以降、大和政権の経済的・軍事的基盤として重要度を増した東国との関係で大きな意義を持っている。ヲホド王の二つの拠点を生かすには、地勢的にその中間に位置する近江坂田の重要性が浮かび上がる。すなわち近江高島・越前三国と尾張・美濃を結ぶ場合、交通路から見て近江坂田を経由する必要があるからである。そしてヲホド王には近江坂田出身の二人の妃、息長真手王の娘麻組郎女と坂田大俣王の娘黒比売がいる。「書紀」のみにみえる妃、広媛の父・根王は出自に不明な点があるが、広媛の生んだ二人の皇子は、兄の兎王子が酒人公氏の、弟の中王子が坂田公氏の祖とあり、近江坂田に関係あることが推測される。ヲホド王の九人の后妃のうち三人までが近江坂田にかかわりのあることは、この地の豪族が大王の擁立勢力として大きな地位を占めていたことが判る。(関係-地図 「継体天皇と即位の謎」大橋信弥著より)

ヲホド王の妃のうち有力な中央豪族の出身であるのは、和珥臣河内の娘である?(ハエ)媛のみである。大和政権の中枢で重要な地位を維持していた和邇(春日)氏は、ヲホド王擁立勢力としても大きな位置を占めている。角山君・小野臣・近淡海国造・粟田臣など和邇系氏族は、すべて山背国東北部から、琵琶湖西岸を経て越前・若狭へのびるルート上の要衝の地を占めている。これらは高島三尾を取り囲むように分布しているとともに、その拠点から近畿中枢への進出ルートとも重なっている。オホド王が近畿中枢に進出するにあたって、基点となった河内の樟葉、山背の筒城、弟国などはいずれも和邇氏の勢力圏に含まれていた。このことは、息長・和邇など海人系のヲホド王支援勢力は琵琶湖上および宇治川・木津川水系の交通路を完全に押さえていたことを意味する。

ヲホド王〈継体〉についての記紀の記述は即位の事情をドラマチックに、またスムースになされたように構成した作為の跡が著しいとする見方がある。武烈の死後ではなく、おそらくは雄略〈武〉の没後、王統断絶の危機が顕在化すると共に、成人後のヲホド王は着実にその勢力を越前・近江から美濃・尾張、さらに東国一帯に拡大し、また有力豪族和邇氏のバックアップもあり、近畿中枢への進出を意外に早い時期に進めていた可能性が高い。隅田八幡神社鏡(人物画像鏡)の銘文に登場する孚弟王(ハド王=ヲホド王)は仁賢在位中の503年に大和の忍坂に拠点を構え、百済外交を担当していたと解釈されるという。

  この時代の畿内豪族としては河内に本拠を持つ物部、大伴がいた。物部はいまの八尾市から旧大和川沿いに斑鳩あたりまで勢力を伸ばし、大伴は住吉を本拠にして大和の磐余まで勢力を伸ばしていた。 

大和の南西部には蘇我、巨勢がおり、南東部の三輪山麓に三輪君、そのすこし北に穂積臣がいた。西の葛城は雄略によって弱体化させられたが、その支族が残っていた。五世紀から六世紀はじめに、大王に非常に高い権力があったとすることには疑問があり、倭連合政権の色彩がつよく残っていたのでなかろうか?雄略〈武〉はそれに飽きたらず、治天下の独裁王者になろうとしたが完全には果たせないうちに死亡してしまった。その政権を支えていたのは、大連の物部と大伴、それから臣姓豪族では葛城と平群がいたが、葛城臣は雄略〈武〉在位中に本家が滅ぼされ、平群臣は雄略の没後に首長が殺され、蘇我氏がそのかわりに連合政権の中で台頭してくる。

 この皇統断絶の危機に、畿内の豪族では連系の物部・大伴がそのまま残り、臣系の豪族が弱体化していたことがこの転機の一つのポイントである。連系とは大王家に連なる直参的家来で職能を持って仕えている氏族であり、物部・大伴が大連としてそれぞれの職能集団を束ねていた。一方、臣性はだいたいその土地の名前を姓とする在地豪族であり、大王家と匹敵する立場を占めており、大王家・王族とともに連合政権を構成していた。大連は大王が居なければ権力が発揮できない。軍事氏族としていかに勢力が強くとも、大王が居なければ力が発揮できないわけである。そこで大伴金村はヲホド王を擁立することによって、自分の勢力を強めようとしたのであるが、ヲホド大王は大伴金村の意向に乗り擁立されたが、傀儡にはならず、大王として自分の意志を強くもって行動していたと考えられる。

記紀ともにヲホド王を応神五世孫としながらも、その中間の系譜を欠いていたことから、信憑性に疑問が持たれたていたが、その後「上宮記」という記紀より古い文献に「一伝」として系譜が記されていることが判り、同時にヲホド王と息長氏の母系の関係がその文献から明らかになった。
(岡野 実)

文献  継体天皇と即位の謎  大橋信弥  吉川弘文館
(岡野 実)
    写真は吉本吉彦氏の撮影、転載をご許可頂いたことに感謝申し上げます。


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