-古代史年表を見て考えること(3)- 
                                             第18回
 21世紀に入る前後に、「新しい歴史教科書」問題が大きな話題となった。中等学校の歴史教科書の記述が、近代の日本を否定的に見る「自虐史観」あるいは「東京裁判史観」に傾いているという観点から、近代の日本を肯定的に評価し歴史の見方にバランスを取り戻そうと考えで結成された「新しい歴史教科書を出版する会」が新教科書を発刊した。
すると、この教科書を標的にして、誹謗・中傷がマス・メディアで大きく展開され、数種の批判本も出版された。

 各都道府県における教科書採択の進行中は採択現場に予断を与えるので、出版は控えるべきだとの不文律が当時あったという。
しかし、採択の開始前に批判にさらされ、肝心の教科書の現物が公刊されないままに、悪罵ばかりが一人歩きする状況が生じたため、会は教科書現物の市販本の出版に踏み切った。
さて、この教科書を採択した教育委員会の全国シェアは0.5%を下回る結果であったが、しかし「市販本」は関心を呼んでベストセラーになるという、皮肉な結果をもたらした。

 日本の近代をどう評価するかは重要な問題であるが、さいわい近代史には「同時代の確実な史料」が有り余るほどある。
円柱を横から見て四角形だと言い張る者たちに、上から見れば円形だ、斜めから見れば円柱だ、と反論するに足る史料がある。
近代の日本を否定し、歴史のみならず、国家や国歌が担っている善悪の全てを引き受けることを否定する者たち、歴史認識の共有を迫る大陸や半島の人たちにも、根気よく「同時代の確実な史料」で対峙することが可能である。
近代史については、史料が解決してくれると楽観的に考えることができる。

 2012年ともなると、昨今の歴史教科書については「華夷秩序」あるいは「中韓隷属史観」をめぐる話題がホットであるという。
何といっても、日本の古代史はその時代の確実な史料に乏しく、日本列島における統一国家形成期に至る6世紀以前の歴史は弥生・古墳時代と呼ばれ、ほとんどを中国史料と考古学的史料をもとに記述されている。前出の「新しい歴史教科書」もその域を出るものではない。

 さて、弥生時代中・後期とそれに続く古墳時代への移行期は、渡来人が大陸・半島から大挙して到来した時代である。中国の史書は国の興亡、動乱については記載しているが、その結果生じた列島への渡来などにはノータッチである。
渡来人の多くは亡国の民あるいは戦いの敗者であったから、史書に現れないのは当然ともいえる。
むしろ渡来人の足跡は日本列島で出土する考古学的資料に現れており、逆に言えばこの時代の考古学的資料はほとんどが渡来人由来のものであるともいえる。

即ち、古代史の政治・経済・文化の変遷には渡来人の影響があった、あるいは渡来人たちがそれを担っていたとみることができる。

 渡来の経路としては中国・長江の河口付近から海を渡り九州西部に入ってきた、また中国のさらに南から琉球列島沿いにやってきたという考古学的証拠がある。
ついで大きな流れとなった朝鮮半島から日本列島への主要な経路は次の三つである。

1)半島西南部の百済系は済州島東部を通り、九州西北部へ入るルートを利用した。

2)魏志倭人伝に記載されている航路は金海から対馬に渡り、更に壱岐へ行き、九州北部に渡るコースであり、
  これは加耶系のルートともいえる。

3)半島東海岸から出発し出雲・丹波などに渡るコースで、日本海を横切るこの新羅系ルートは、
  季節風や海流を十分に利用した往来である。

 朝鮮半島からの渡来は人数(物量)的に、そして時代が若くなればなるほど、列島への渡来の主流となっている。しかし、古代史における重要性からすれば中国本土からの直接渡来を無視することは出来ない。

 代表的な弥生の遺跡といえば、静岡市登呂遺跡、奈良県田原本町唐古・鍵遺跡のほか、兵庫県尼崎市の田能遺跡、岡山市の上東遺跡、愛知県清洲町の朝日遺跡、福岡市の板付遺跡、山口県豊北町の土井ヶ浜遺跡、さらに佐賀県の吉野ヶ里遺跡等々、これらの遺跡は水田を農耕生産の基礎としていたので、低地または低湿地に営まれている。

低地集落は自然の河川や運河(溝)で繋がっており、交通手段は船が中心であったと推定される。当然の亊ながら、河川を下れば河口から海に通じている。
弥生の遺跡を個別にまた地域別に、そして編年的に考察してみることは興味あることであると考えるが、詳細は別の機会にゆずることにして、それらの遺跡が形成された時期にムラからクニへの変遷があったことは間違いないと指摘するだけに止める。

 2012年2月に中田力著「日本古代史を科学する」がPHP新書として刊行された。本書はY染色体が示す日本人のルーツの解明をはじめ、記紀の3大難問といわれる紀年問題、邪馬台国、神武東征についてユニークな説を述べている。

即ち
1)紀年問題では安本美典氏の提唱した説を計数化し統計解析を行って相関を確認し、神武の即位年を282年
  と推算。

2)諸説の賑々しい邪馬台国の所在地は日向であると提唱。

3)神武東征は実話であると云う説を展開した上に、出雲の国譲りについても独特の見解を披露している。

 ここではY染色体が示す日本人のルーツ説についてのみ紹介する。
人の性染色体はXとYであらわされ、XXの組み合わせになると女性に、XYの組み合わせになると男性になる。
女性はX染色体を両親からひとつずつ受け取り、男性はX染色体を母親から、Y染色体を父親から受け取ることになる。
X染色体のように両親から必ず同じものを受け取る対になっている染色体は、二代過ぎてしまうとどちらの家系から受け継がれたかが判らなくなってしまう。

その反面、Y染色体は常に父系の男子に受け継がれることから、だれからだれに受け継がれたかがはっきりと判るのである。
そして、遺伝子には多型(polymorphism)と呼ばれる面白い現象がある。どのようなDNA配列にも起こるわずかなゆらぎのような現象である。
この長い塩基配列の中でランダムに起こった変異の結果、悪い影響を与えてしまう場合は病気の原因になってしまうのだが(狭義の変異)、影響を与えない変異は、DNA配列の揺れとして受け継がれることになる。

多形の起こり方(ハロタイプ)によって染色体を、統計的にグループ分けすることが出来る。Y染色体ハロクループを追いかけることにより、何万年に一度というまれに起こる配列の揺れから、父系の先祖を遡ることが出来る。

 YハロタイプにはAからRまでのグループがある。東アジアは圧倒的にOグループの男で占められている。
アジアには、まずCグループが広まり、それを追いやるようにして、Oグループが広まったと考えられている。

日本は他のアジア諸国とは違い、Oグループが絶対多数を占めない国である。Cグループを主体とするモンゴルも同様であるが、日本は更に特殊で、Cグループ以外にDグループというYハロタイプを持つ男が多数存在する。
現在、Dグループの男性が有意の数存在すると知られている国は、日本とチベットである。

 日本では、CとDが縄文人、Oが弥生人を現していると考えられている。
アイヌ男性のハロタイプが圧倒的にDグループで占められており、沖縄の男性にもDグループが多いことから、初期の縄文人がDグループ、後期の縄文人がCグループであると考えている学者が多い。
弥生人とされるOグループの男性がしめる割合は、九州で高く、本州でも西高東低の分布を示す。

 Oグループには中国本土、おそらくは、長江河口付近で枝分かれしたサブグループがあることが知られている。
このグループが米作りの民となった可能性が高く、その中でも、サブグループO2は稲作国家に広がっている。
このO2グループはさらに、O2aとO2bとに区別される。面白いことに、日本と韓国のOグループの多数を占めるO2bを持つ人は、中国本土にはほとんど存在しない。

日本の弥生人を形成した人々がO2、特にO2bのグループであったことは確定的で、かつ、このハロタイプを持つ人々はそのほとんどが中国本土を離れている(根こそぎ渡来?)のである。

 日本の水田で作られているイネ、温帯ジャポニカの遺伝子解析でも面白い事実が見出されている。
温帯ジャポニカは長江中流域、今の湖南省北西部に生まれ、長江河口、現在の上海デルタ地帯に広まったとされている。
この地方で栽培されているイネの60%近くにRM1−bと呼ばれる遺伝子が存在するのだが、日本で栽培されているイネの多くもこの遺伝子を持つ。ところが朝鮮半島で栽培されているイネにはこの遺伝子は見つからないのである。

従って、このRM1−b遺伝子を持つ温帯ジャポニカは、日本に弥生時代をもたらした水田稲作が半島経由ではなく、直接、長江河口付近から伝わった技術であることを示している。当時、長江河口付近の土地を支配していた国が滅亡している。
「史記」によれば、姫姓の呉−周の太白の建てた国−で、紀元前473年であった。
(岡野 実)
    文献    日本古代史を科学する  中田 力 PHP新書 (2012)


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